「生物学的チェルノブイリ」という表現が示唆しているのは、中国共産党による初動の遅れと情報隠蔽が災害を悪化させたという点が、ソ連共産党のもとで発生したチェルノブイリ原発事故に匹敵、あるいはそれをはるかに凌駕するものがあるのではないか、ということにある。
人民解放軍がすでに2019年11月段階で情報を把握していたこと、最高指導者の習近平も情報を知っていながら、その情報を軽視して2020年1月17日から18日にかけてミャンマーを訪問、適切な指示を出していなかった。解任された武漢市の市長の記者会見における発言は、共産党の官僚組織にビルトインされた上意下達が生み出す、「事なかれ主義」という人災であったことを全世界に知らしめた。
この点において、新型コロナウイルスは「バイオロジカル・チェルノブイリ」と呼ばれて当然であろう。初動の遅れと情報隠蔽が、感染爆発を全世界規模のパンデミックに拡大させた最大要因なのである。
自己複製できないウイルスは生物ではないが、ネーミングとしてはインパクトがある。また、この表現の背景には、新型コロナウイルスは、なんらかの事故によって漏出したものだという前提がある。コウモリなど動物由来のウイルスがヒトに転移したのだとしても、実験に使用した動物(もしくはウイルス)がずさんな管理によって生物研究所の外部に漏出したのではないか、という疑いが濃厚だ。
実際、新型コロナウイルスの発生源については、中国人の医学研究者2名の共同執筆による The possible origins of 2019-nCoV coronavirusという論文では、武漢市内の2つの研究所から漏出した可能性が高いことが指摘されている(参考:「失踪した中国人研究者の『消されたコロナ論文』衝撃の全訳を公開する」)。
この論文は、発表後ただちに当局によって削除されたが、それだけ中国共産党にとっては痛いところを突いており、信憑性が高いと見るべきではないか。なお、この英語論文は、現在でもネット上で閲覧可能である。ぜひ確認していただきたい。
毒物研究の世界的権威で、1995年のオウム真理教によるサリン事件では日本の警察に捜査協力もしている台湾出身のアンソニー・トゥー博士は、「生物兵器研究所から細菌やウイルスなどの病原体が漏れ、騒動になることはよくある」と指摘している(参考:「燻る『新型ウイルス=生物兵器』説、専門家が解説」)。傾聴に値する見解といえよう。この件についてはのちほど取り上げることにする。
スウェーデンで発覚したソ連の原発事故
まずは、1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故の初動の遅れと情報隠蔽について、振り返っておこう。先にも見たように、風向きの関係で風下にあったスウェーデンで放射能が検出されたことで、はじめて原発事故が発覚したのである。
このレポートを書いた佐藤 けんいち(著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)は、もうすでに「アフターコロナ時代」に向けての動きが始まっているのである。それは経済だけではない、さまざまな局面で大きな地殻変動が始まろうとしているとする。そこで、もう一度、歴史を振り返り、人々の気づきを促しているのである。
第1次世界大戦の末期、1918年に発生した「スペイン風邪」が流行ったが、スペインの国名が冠せられてしまってはいるが、実際の発生源は米国だとされている。というのは、当時のスペインは交戦国ではなく中立国であったため、比較的正確なデータが公表された。そのためスペインのデータで言われる「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれた経緯である。日本も含めた全世界に感染が拡大した結果、当時の世界人口の約3割にわたる5億人が感染、最大規模で5000万人が死亡したとされている。この風邪のお陰で、膠着化していた世界大戦の集結を早めたとさえ言われる。
歴史をさらに遡れば、14世紀から17世紀にかけて欧州と地中海世界を中心に暴れまくった「黒死病」もまた、比較検討する対象として論じられている。「黒死病」(ペスト)については、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。致命率は非常に高く、抗菌薬による治療が行われなかった場合、60%から90%に達する。
古来複数回の世界的大流行が記録されており、14世紀に起きた大流行では、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したと推計されている[4]。ヨーロッパでは、1348年から1420年にかけて断続的に流行した。
その後も、ペストは17世紀頃から18世紀頃まで何度か流行した。
1629年10月にはミラノで検疫の重要性が明らかになった。すなわち、1630年3月のカーニバルのためにミラノでの検疫条件を緩めたところ、ペストが再発したのである(en)。ピーク時の死亡者数は1日当たり約3500人であった[20]。
清教徒革命を経て王政復古後のロンドンで1665年に流行し(en:Great Plague of London)、およそ7万人が亡くなった。1666年に大火(ロンドン大火)が起こり全市が焦土と化したことでノミやネズミがいなくなり流行は終息した。(後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年刊)という小説で当時の状況を克明に描いた[21])。ロンドンでは人が多く集まる大学が閉鎖され学生はペスト禍を避けるために疎開させられた。(なお、当時ケンブリッジ大学で学位を得たばかりのアイザック・ニュートンも故郷に疎開することになり、それまで大学で小間使い的な仕事をして生活費を稼いでいた彼は、疎開により雑事から完全に解放されて、思索に充てる時間を得たことで、微積分法の証明や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想(距離の逆2乗の法則の導出)などを行うことができたわけで、「ニュートンの三大業績」とされるものはいずれもこのペスト回避の疎開の時に生まれたものであり、イギリスにとって歴史的な災厄が続いた月日に イギリスの誇る宝が誕生することになったわけである。
ヨーロッパで猛威をふるったペストは、放置すると肺炎などの合併症によりほぼ全員が死亡し、たとえ治療を試みたとしても、当時の未熟な医療技術では十分な効果は得られず、致命率は30%から60%に及んだ[5]。イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街や村もあった。ペストによってもたらされた人口減は、それまでの社会構造の変化を強いられる大きな打撃を与えた。19世紀末に北里柴三郎によって原因菌が突き止められ、有効な感染防止対策がなされ流行は減ったが、近年でもペストの感染は続いており、2004-2015年で世界で56,734名が感染し、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)である
◆「見えない敵」であるウイルスと放射能
「NBC兵器」という概念がある。「N」とはNuclear、「B」はBiological、「C」はChemicalの略である。核兵器、生物兵器、化学兵器のことだ。それぞれ放射能、細菌とウイルス、化学物質を兵器として使用する。この3つには共通点がある。それは、いずれも「目に見えない」ということだ。
当時のソ連は原発事故があった事はすぐには公表していなかったため、スウェーデンの研究機関がこれに気づいて発覚した事実を思い返してほしい。まずは、1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故の初動の遅れと情報隠蔽について、振り返っておこう。風向きの関係で風下にあったスウェーデンで放射能が検出され、はじめて世界は初めて原発事故が起きたとしったのである。
スウェーデン政府はソ連政府に照会したが、ソ連政府は「説明できる情報はない」と否定的な回答を繰り返すのみ。しびれを切らしたスウェーデン政府が、国際原子力機関(IAEA)に報告すると詰め寄った結果、ついにソ連政府は午後7時に一転してチェルノブイリ原発でのメルトダウンの事実を認めたのである。事故発生からすでに69時間が経過していた。事故発生は、4月26日の深夜、午前1時23分のことだった。
参照HP:JB Press(4/21)
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/原発事故を隠蔽したソ連は崩壊、中国の命運はいかに/ar-BB12WpF7?ocid=spartandhp1963年に成立した「部分的核実験停止条約」を監視するため、中立国スウェーデンには国境沿いに無人放射能探知機が多数設置されていた。4月27日、それらの探知機が大気中の放射能レベルの異常な増加を検知し始める。だが、この日が日曜日であったこともあって、誰一人問題にすることがなかった。
首都ストックホルムの北にあるフォッシュマルク原発でも、翌朝の4月28日の午前7時に高レベル放射能が検知された。原発内の3つの原子炉で検査が行われたが、漏洩は特定できなかった。だが、事態を重く見たスウェーデン政府は、午前9時半に原子炉を停止させ、作業員や周辺住民の避難を開始した。
また、この日の午後から防衛研究所の観測所や気象庁のデータ、さらには空軍の偵察機によるバルト海上でのサンプル採集の結果、原子炉事故にともなって発生するセシウム137とヨウ素131の比率が異常に高かったこと、風向きの関係から、放射能の発生源がソ連領内の原子炉からのものであることを特定したのである。
当時のソ連共産党書記長は、1985年3月に就任した当時54歳の改革派ゴルバチョフだったが、事故から18日後になって国営テレビ放送で「原発事故にかんする報告」を行っている。
『チェルノブイリ・クライシス』(竹書房、2011 完全復刻版)によれば、報告のなかでゴルバチョフは以下のように述べているという。「事態の重大性は明白だった。それを早急に、適切に評価する必要があった。われわれは確実な初期情報を入手すると直ちにソ連の人びとに知らせ、外交経路を通じ、諸外国の政府に伝えた」。
直ちにソ連の人びとに知らせたというのは、明らかな虚偽である。ソ連国内向けの放送では、事故から18日経過時点でも、ソ連国民にはウソをついていた。当時のソ連においては、5月1日のメーデーから5日間が国民の休暇になるだけでなく、5月9日の「独ソ戦戦勝記念日」がきわめて重要な政治イベントであったこともあり、事故情報が意図的に隠蔽されたようだ。
ベラルーシの作家でノーベル文学賞の受賞者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、原発事故から10年後に多数の人びとへの聞き書きをもとにした『チェルノブイリの祈り−未来の物語』(岩波現代文庫、2011)を書いているが、この本を読むと、地方政府の共産党書記長が、事故から5日後のメーデーの時点でも情報開示していなかったことがわかる。チェルノブイリ原発はウクライナに立地していたが、風向きの関係で北に隣接するベラルーシが最大の被害地となったのである。
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