http://www.city.abiko.chiba.jp/web_kouko/citymap_index.html?lat=35.889907&lng=140.055005&zoom=12&ctgr=%E4%B8%BB%E3%81%AA%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99&pr=8
中でも日秀西遺跡(相馬郡衙正倉跡)は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良時代以降の住居跡などが見つかった複合遺跡で、郡衛の中心部分の様相が明らかになった遺跡と認定されたため、平成7年に県指定文化財となりました。その主な遺構としては、縄文時代住居跡が2軒、弥生時代住居跡が2軒、古墳時代住居跡が188軒、奈良時代以降の建物跡が54棟が検出され、古墳時代以降に生活の跡が集中しているとがわかりました。場所は、東西に長い我孫子の台地のほぼ中央部に位置し、南に手賀沼を望む台地上、日秀字西60の6にあります。一部分は元千葉県立湖北高校(現・千葉県立特別支援学校)の敷地内に確認され、調査後は埋め戻されています。1989〜2001年(平成元〜13年)に9次の発掘調査が行われました。
遺跡発見の経緯は、1978年(昭和53年)湖北高等学校の建設時の地盤処理において見出され、発掘調査が行われました。郡衙とは古代(奈良・平安時代)の郡の役所全体を指す名称で、正倉とは徴収した税である稲などを納めた倉庫群を指します。相馬郡衙正倉跡は、出土遺物から考えて8世紀初頭から9世紀半ば過ぎまでの期間、郡の正倉としての機能を果たし続けていたと考えられています。検出された建物の大半は、掘立柱を側柱(がわばしら)だけでなく内側にも立てて床を支える「総柱(そうばしら)建物」といわれるもので、倉庫として使われた「高床建物」であると考えられ、このことからもこの遺跡が郡衙正倉跡であると推定されました。相馬郡衙正倉跡からは、当時の貨幣である和銅開珎(銀銭)、瓦などの他におびただしい量の炭化米が見つかっています(炭化米の存在は、米を納めていた倉が故意か事故かは別にして、火災に遭ったことを示す)。
古代の行政区分では、全国を六十余国に分け、さらに各国をいくつかの郡に分けていたと考えられます。郡は税の徴収、戸籍の編さんなど、いわゆる「律令政治」の基礎をになっていたのです。かつての相馬郡は現在の我孫子市、沼南町と柏市の一部、さらに利根川を挟んだ茨城県取手市、利根町、藤代町に相当すると考えられています。我孫子の相馬郡衙正倉跡は、東群・北群・西群・南群というように、方位にあわせてきれいに列をなす建物群によって構成されています。

市制50周年の今年、我孫子の土地が古代より続く営みがあったと知るのは、私たちの生活に深い意味をもたらしてくれます。