2019年11月29日

焼き場に立つ少年

「焼き場に建つ少年」教皇はこの写真を印刷したカードに「戦争が生うみ出したもの」とする言葉をそえ、世界に広めてきました。 撮影したジョー・オダネルさんについては、ホームページなどが詳しく紹介しています。それによると、1945年、占領軍カメラマンとして来し、被爆した広島・長崎や空襲で被災した各地の様子を記録。空爆調査団の公式カメラマンとして原爆投下の1ヶ月後の長崎で撮影を始めました。46年帰国後、私用カメラで撮影した写真ネガを罪悪感から自宅のかばんにしまい込んだ。オダネさんは、そもそも真珠湾攻撃を受けて以来、日本に憎しみを抱き、19歳で軍に志願した人でした。49年から68年まで、米国情報局ホワイトハウス付カメラマンとして、アメリカ情報局に勤めたそうです。中でも暗殺されたケネディの棺の前で、息子が敬礼している写真は有名になりました。


 軍の許可なく人物の撮影をしてはならないと言われていたそうです。しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受け、その姿を写真に収めてゆきました。そして、7ヶ月間長崎・広島を撮影した後、秘密裏に母国の自宅に持ち帰りましたが、悲惨な光景は頭から離れる事はありませんでした。
自分の国がした行為をどうしても正当化する事が出来ず、苦渋の日々にさいなまれ、全ての写真をトランクの中に封印してしまったと言います。しかしある日、彼は教会で原爆被害者の写真を貼付けられたキリスト像を目にした時、かつての衝撃がよみがえって来たのでした

 89年、米国内の反核運動に触発されてかばんを開け、90年米国で原爆写真展を開催。けれどもアメリカでは受け入れられない行為でした。皆から嫌がらせを受け、妻までもが去って行きました。

 2007年、奇しくも長崎原爆投下と同じ日に脳卒中で85歳没。美智子皇后(当時)は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、2007年に印象に残ったことの一つとして言及されている。また、彼の遺志を継ぐ息子さんによって、オダネル氏の回想録の入ったテープが発見されました。


 オドネルの死は米国ではどう報道されたか、訳してくれたHP(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/08/joe_odonnell_6972.html)があったので下記に引用する。

 14日付けニューヨークタイムス”Joe O’Donnell, 85, Dies; Long a Leading Photographer ”(参照・要登録)が詳しい。

The cause was complications of a stroke, said his wife, Kimiko Sakai. She said that he had had more than 50 operations, among them surgery on his colon and his heart, and that he had attributed his poor health to radiation exposure resulting from his visits to Nagasaki and Hiroshima.
(死因は、妻坂井貴美子によると、卒中が併発したものだった。彼は50回もの手術をしていたし、それには直腸や心臓の外科手術も含まれていた。彼が健康を損なっていたのだは、彼が長崎と広島を訪問したおりの被爆によるものだ。)

 オドネルは米国の公的な写真家でもあり、そうした側面についてニューヨークタイムス記事は触れているのだが、後半はやはりトランクの中の写真に多くを裂いている。

Mr. O'Donnell also ventured to Hiroshima and to cities bombed with conventional weapons. He carried two cameras. With one, he took pictures for the military. With the other, he took pictures for himself. When he returned home after the war, he put the negatives of his own photos in a trunk and locked it, emotionally unable to look at them.
(オドネル氏はまた広島や通常兵器を受けた諸都市も訪問した。彼は二つのカメラを持っていた。その一つで従軍用の写真を撮り、もう一方で彼自身のための写真を撮った。戦後彼は帰国し、その写真のネガをトランクに詰め封印した。それらは感情的に見ることができなかった。)

 彼が自身の封印を解いたのは半世紀近くたってからだ。

When he finally could, nearly a half-century later, he was so repulsed that he threw himself into protesting nuclear arms. In 1995, he published in Japan a book of many of those photos, and, a decade later, another in the United States. He lectured and exhibited in both countries.
(約半世紀して彼は見られるようになったとき、打ちのめされ、自身を核兵器反対運動に投じた。1995年、彼は日本で多くの関連写真を出版し、10年後に米国で出版した。彼は両国で講演と展示会を行った。)

 記事はこのあとスミソニアン航空宇宙博物館展示の問題に触れているが、彼は原爆は「しかたがない」とする展示の趣旨を受け入れることができなかった。

The photographs were stricken from curators' plans, as were other features that offended veterans. In an interview that year with National Public Radio, Mr. O’Donnell contended that, given what he had seen immediately after the war, Japan could have been defeated with conventional arms, and without the hundreds of thousands of American casualties that an invasion of the Japanese home islands had been expected to entail.
(退役軍人の怒りを買った他の展示と同様、その写真はキュレーターの企画から削除された。この年の国営ラジオNPRのインタビューでオドネル氏は議論を投げかけた。彼が戦後すぐに見たものからすれば、日本は通常兵器で敗戦に追い込むことができた。しかも、本土上陸による十万人規模の犠牲者を要せずとも可能だった。)

再婚の妻は米在住の坂井貴美子さん(56)が、オダネルさんの遺志を尊重して、写真集「トランクの中の日本」(小学館)を出版。


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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