http://kaizublog.seesaa.net/article/434254867.html?1565506401
とある方と、「令和に、また新たなスタートです」とメールのやり取りをしていたら、
> 令和?わたしは、明治政府がつくった元号制度なので、使いません。
> 「元号は伝統」というのは、真っ赤なウソです。
と詳しい経緯を教えて下さった方がいたので、令和に代わって3か月になるので、もう少し元号について考えてみたいと思います。
そこで、Webを使って調べてみると、中国にならった「元号」の制度は、「大化」(645年)にはじまり、二度の中断をはさみ、「大宝」(701年)から続いていましたが、元号を変えるのは、それまでの時代をリセットして一から始めるという意味が込められていたのだと言う事でした。
そもそもが、江戸時代までの伝統の元号とは、大化(645年)から慶応(1868年)までの1223年間に244の元号となっていたのですから、一つの元号の平均の長さは、5年程度の期間です。つまり、厳密には天皇在位とは関係がなく、それよりも、地震や火災、天災が続いて凶作になるといった良くないことが起きたときや、その逆に美しい雲が現れたり、 甲羅に北斗七星のような模様がある珍しい亀が見つかるといった良いことがあったときなど、いろいろな理由で元号が変わっていたのです。
江戸時代に庶民の暮らしは、時間を測る尺度に丑三つ時などと、主に干支(12年×5=60年で一巡)を使っていました。ちなみに、最初の「大化」は、4年8カ月。次の「白雉」も4年8カ月、「朱鳥」6カ月、「大宝」3年1カ月、「慶雲」3年7カ月です。 最後の江戸時代末は、「万延」11カ月、「文久」2年11カ月、「元治」1年1カ月、「慶応」3年5か月です。このように頻繁に変わる時代名であり、その習慣は江戸時代に終わりました。
一方、天皇という中国にならった呼び名についても、天武(673年)が最初であり、平安初期の村上天皇までで、その後は800年間もの間「天皇」と呼ばれる存在はいませんでした。天皇と呼ばれた一族は、実権を失い、京都のローカル王にすぎなくなったのです。この「天皇」という呼び名の復活は、江戸時代後期の光格天皇まで待たねばなりません。
しかし、今日でも、帝(みかど)、今上(きんじょう)などと呼称されるのは、明治維新による統制のままです。明治政府の方針(日本の歴史≠天皇の歴史ではないのに)に今も従っているので、それほど戦後の新憲法の制定に、国体を護りたいという強い意識が国家の中枢にあったとみえます。明治からは、一世一元という新しい元号制度=天皇と元号を結び付けて、近代天皇制と呼ばれる天皇中心主義国家のシンボルとし、江戸265年間の武士たちが携えた刀や頭髪、かみしもを捨てさせるために強固に推進してきた訳です。明治の頃には、それまでの身分制度を拝して、皇族、華族、平民の身分に分けられました。この平民の中で、女性には一切の権利がなく、男女は席を同じくせずが厳しくされ、男性は徴兵義務と同時に選挙権が与えられました。こうした、時代の変革期に一世一元の元号を使用させることで、日々、自然に天皇という存在を神に崇めて意識させるのが、明治新政府の思想統制でした。
大化から慶応まで1200年あまりの日本の伝統や歴史の積み重ねの上に、明治維新後の新政府が国家宗教ともいえる国体思想を形作り、廃仏毀釈も凄まじく、村の鎮守の森の社にすらも目を光らせて、大きく日本社会に近代化を迫って、脱亜入欧と共に天皇の赤子である男児に「君のために死ぬ」名誉を浸透させたり、今なおそれらの呪縛をもち続ける部分もあるのですから、権力・オーソリティー側の意図をウオッチして支配される構図になる歴史が繰り返すなどならぬよう、世界のパワーバランスにも注意して海外ニュースをみるべきです。
多分に、女性の側は、ごくわずかの一部の例外を除いて権利構造からはずされ、支配される側になりやすいです。それは、やはり妊娠・出産の事情が生じるので、不利が生じるのではないかと海津にいなは考えます(放送大学にて論文上梓)。そのため、女性たちは平和および性差を越えた平等を希求する共通項を持つ。女性の学者、経営者、政治家、弁護士、医師が増えていくと自ずと政治的、歴史的タブーが解かれていくようになるのではと、海津にいなは女性学の進展に期待しているのです。
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