江戸時代から文化として途絶えることなく継承されている日本の囲碁には師について学ぶということが早くから確率した教養の一つでした。中国発祥で5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされます。貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められています。日本では、師について学ぶという作法を重んじられ、勝ち負けを超越した美しい棋譜を作る、これが日本の碁の伝統です。そのような習得の方法で世界トップを維持でなったのは、昭和後半くらいだと言われます。韓国や中国でプロ組織が立ち上がり、中・韓は碁を"競技"として捉え日本に追い付け追い越せと、自国でのプロ棋士育成に本気で取り組むようになったのです。戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった為、対戦は椅子です。10歳でプロ囲碁棋士になった仲邑菫さんは両親が囲碁の取り組む人なので3歳から手ほどきを受けて、7歳になると両親の韓国修行に伴われて指導を受けていたという事です。菫さんの大局の姿も椅子であったことは記憶に新しいことでしょう。将棋界では十代の藤井聡太7段の快進撃が注目されていますが、将棋の大局は依然として畳です。高橋プロが足の骨折で、ギブスをして対局したのを覚えていますが、
日本の囲碁のトップクラスの 井山6冠が、囲碁の世界ランクは13位で、今や世界ランキング上位は中国と韓国の棋士にほぼ独占されている状況です。
囲碁世界ランキング(2015年10月)
http://sports.geocities.jp/mamumamu0413/korea/world_rank.html
特に中国では、全国から有望な子供を発掘し、1箇所に集めて寝食を共にさせ、普通の学校には行かせずに、ひたすら碁の才能を高めるのです。 韓国も同様で、国をあげて棋士の育成に取り組んでいるのです。 中国と韓国に囲碁のプロ組織が出来て、棋士育成に本気で取り組むようになってから、日本が世界トップから陥落させられました。平成に入り世界のトップは中国と韓国に独占されてしまいます。 昼間は小学校に通って義務教育をこなし、夕方から夜の間だけ、囲碁教室や師匠に碁を教わる日本とは大きな差があり、幼少期のこの差はなかなか縮められないのだそうです。 今では、上記の他に台湾はもちろん、アメリカでも取り組まれています。
日本も危機感を感じ、現在では世界で戦える棋士の育成にも力を入れており、井山六冠を筆頭に有望な若手が沢山育っています。
これは、柔道も同様なところがあると、嘉納治五郎によって体系化された柔道が、世界の普遍的スポーツになっていく段階で、世界のトップではなくなってきた過程と似た経過があると思われます。
囲碁は国際的に(多少の差異はあるが)ルールが統一されていること、白黒の石でゲームを行うこと、他国の固有ゲームとは類似性が見られない(他国ではチェスなどの将棋系ゲームがすでに存在していることが多い)ゲームであるなどの理由で、世界的に普及が進んでいる。それとは対照的に、 将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるという説が最も有力とされている。 将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋 : 장기)、タイにはマークルックがある。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀ごろと考えられている。最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。
こうして漢字を記した駒を使用する将棋の世界で、昭和51年の名人戦契約問題(朝日→毎日)が原因となり、正座での対局が正式ルールとなりました。 当時、朝日(升田)毎日(大山)の騒動で、契約金の問題以上に感情的なもつれが連盟内に生じてしまい順位戦が一年間指されない事が起きていました。不運なことに、升田幸三は休場中に受けた自動車事故の後遺症から正座での対局が困難になり、連盟に「椅子での対局許可願」を提出したが首脳部が却下したため、升田は休場明けの昭和54年に将棋世界誌の特別対局二局を最後に引退を表明していました。また、昭和51年A級順位戦で初の負け越しをした升田に対しての批判も相次ぎ、大内氏が「引退勧告」をされましたが、むしろ升田引退に追い込まれたのは正座大局の際の膝でした。
名人戦の毎日移管に関しての投票は56票対54票と僅差でしたが、この辺りから当時の大山会長の強引ともいえる主導がありまして「プロの対局は和室で正座」を基本としています。当時の若手理事が中原、米長でした。それも今では朝日との関係も名人戦の二紙共同掲載ということになって関係修復され、当時の血気盛んな人も鬼籍に入ったり引退していますから、その内に椅子対局も解禁されるようになるでしょう。
2019年02月24日
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