番組開始当初は、まだ日本人の海外渡航自体に制限があり(海外旅行が自由化されたのは1964年4月1日)、また1ドル=360円時代でかつ外貨持ち出しに500ドルまでとの制限もある時代だった。日本人の出国は12万7千人/年であった。海外に出ていかれる人は、今と違って大変に限られた条件の人だけだった。昭和のそのころ、日本にとって、海外とは欧米、特にアメリカと考えるといった欧米偏重の世界観であり、第三世界の貧困にたいして目を向ける意識も希薄だった。兼高自身、神戸で育ったこともあるが、父親はインド人であった。「世界を知って日本を知る、日本を知って世界を知る」との、世界の別の側面を提供するという意味合いもあったという。 あこがれの海外旅行を身近な感覚にして提供してくれる、小柄で親しみやすい兼高に視聴者の好感度が高い。平成2年9月に終了するまで、31年間で約150カ国を訪れた。個人名を冠した番組としては世界でも類を見ない長寿を記録、それは、地球を180周した計算となり、日本の放送史に残る金字塔を打ち立てた。
戦後の日本女性の国際進出の草分け的存在でもあり、番組終了後には、さまざまな分野の活動にも関わった。まだ海外旅行が一般には自由化されていない時代(放送当初)に、世界各地の魅力を伝え、その後の海外旅行ブームの火付け役となった。印象的な声で、上品な日本語を話して、時に小気味よく切り返す、語り口も人気であった。
たとえば、兼高が「和服も美しい」と発言したのに対し、トークのあい方・芥川が「そうですね、(兼高かおるが)似合うか似合わないかは別として」と発言したのに対し、「あら、男性も和服が似合いますのよ。(芥川が)似合うか似合わないかは別として」と即座に応酬して見せた。
11年続いた年月を振り返った時期に、兼高自身が芥川の額を示しながら「放送開始時はここまで(と言いながら額を指し示す)だったのが、今はここまで(と、放送当時の生え際を指し示す)変わりましたわね」と、芥川の毛髪量も持ち出して、ユーモアを端々に利かせた会話を繰り返すのを視聴者は楽しんでいた。
初めて南極点に到達した一般女性のうちの一人と言われ、1969年にアメリカ大使館に申請して許可を得たが、名前の「かおる」を男性の名前だと勘違いされており(当時女性に南極渡航の許可は出ていなかった)、直前にキャンセルとなった。1971年にようやく許可が下り、南極点に到達。そのとき同行していた南米の女性と「どちらが一番とかなしにしよう」と話し合って、「1、2の3」で同時に南極点に立てられていたポールにタッチしたそうである。そして、実際に北極点にも、1989年4月に到達している。その後、個人旅行者向けで、若い個人旅行者(特にバックパッカー)をターゲットとした現地での移動や滞在など「手段」までも解説するガイドブック『ちきゅうの歩き方』が1979年に創刊されたが、それまでは、団体旅行、パック旅行で組まれたルート、宿泊先しか選択肢がなかった。1980年代以降は、こうしたバックパッカーを中心とした読者からの生の声を掲載する編集がされ、今でも情報更新がされて世界中の細かな旅情報が網羅されて版を重ねている。LCCも増えて、海外も安い値段で行けるようになって、どんどん情報が入手しやすくなったが、それ以前は兼高かおるの情報が最先端だったと言って間違いない。
昭和60年には「兼高かおる旅の資料館」(兵庫県淡路市)の名誉館長に就任。61年から平成18年まで「横浜人形の家」(横浜市)の館長も務めた。著書も「私の好きな世界の街」など多数。平成2年、菊池寛賞、平成3年に紫綬褒章。改めて「偲ぶ会」をするとのことだ。
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