日本人監督作品としては、1997年の今村昌平監督「うなぎ」以来21年ぶり。是枝裕和監督・脚本・編集で、カンヌ映画賞を狙った意気込みで出品、そして審査員の満場一致でパルムドールを射止めて、見事だ。登場人物のそれぞれの訳ありの人生を、時間を行きつ戻りつして、頻繁な場面設定の変更をつなぎながら、その人物がそこまでに至る人生のステップを、混乱しないようにうまい展開をして、編集がうまい。
健全な社会を描いてみたところで、国民皆中流の神話など当に崩れている。ITだAIだと言われるが、形を変えて弱肉強食社会の日本社会の裏路地の映画のシーンにして表出させた。すでに米国など、霧のサンフランシスコは金門橋が美しいロマンディックな情景を歌に歌われるが、当の昔に社会は病んで、サンフランシスコの街の目抜き通りには白人の乞食がお金をせびって昼日中に座り込んでいるし、パリで、ベルギーで、ロンドンで、病的な事件が日常的に起きてきている。
野生が食うためにハンティングするように、ビルの立ち並ぶ都会のスーパーで、父親ふうの男が、年端のいかない子ども達に、捕まらないよう死角を教えて、トンでもない正しくない事ばかりをして暮らしている。格差社会の影で”ひどい暮らし”をしている人々を「可哀想」という目線で見ていない、本当にそうなのでしょうか?と是枝は映像でたたみ見込んでくる。みなしごだったらしい男児、虐待を受けて凍てつく日に外に出されて腹を空かせていた女児。いつしか一家の生業のように万引きの仕方を覚え込んで、暮らしている。万引しなくちゃ生きてけないほどヤバイ一家、言い訳を正論のように口にする映画の中の大人たち。寄せ集め家族という設定で、不思議にリアリティを見せる。悲壮感でなく自然体な雰囲気を創り出せる、子役も含め演技力が凄く高い俳優たち。”貧しい暮らし”をしている人々を「可哀想」という文脈で語られることが多が、本当にそうなのでしょうか?畳み込んでくる。
やってはいけないことをやってるのに、憎めない人たちのように脚本の仕立て、社会の片隅のリアリティーを描き出している。心の寂しさを探し出したりしないで、自ら語るまでは見守るという距離感で、それぞれの傷に踏み込まないようにしている。ドロドロした大人社会の事情を、かいくぐって生きてくってことを恥じさらしな方法でしか進めない人たちだけど、仮面で暮らしている家族と比べたらどうなんだ、と突きつける。”貧しい暮らし”をしている人々を「可哀想」という文脈で語られることが多いですが、本当にそうなのでしょうか?と、投げかけているのだ。一見ルールに沿って周りから正しいと思われる人生の王道を行く人たち、ルールを犯してないが、表向きに判らないように家族の気持ちや体を傷つけて周りに露出しないように隠し続けている、どっちがましなのいう判断ではなく、それらをすべて飲み込んで、「疑似家族」の笑顔いっぱいの食事風景、密な会話を何度もとらえて映画にしてしまった。今の家族に、一緒に狭い卓を囲みながら、笑い、相手の会話をうけてそっと思いやる、一緒に空を見て、一緒に泣くなんて何回あるかしら??と言わんとしたかのようだ。テンポもいい、海(千葉県夷隅海岸という説)や、公園や車窓からの緑(これも千葉県との説)や子供の姿を取り入れるのがウマイ、皮肉にも「万引き家族」の中にホットな家族愛が一杯込められていることがじわっと後出しで気づかせる、満場一致で最高賞を得た訳だった。
煌びやかなレッドカーペットでドレスを翻すのも似合う肉体をもっているプロフェッショナルたちが、この映画の中では、いかさない服をきて、しがない暮らしの中に居る、しかし、雷のどしゃ降りの中の暑い日にそうめんを食べるシーンからの展開では思わぬほどに女優の美しさが際立って、女の美しさは衣装ではないのだと訓える。出演の彼女ら、彼らは、ドギツイ違法行為、犯罪すれすれの行為をリアルに体現する。だから何が正解かわからない、教育委員会の推薦とはならないだろうが、男児役の少年の起用が、この映画の救いになっている子役ながら、将来愉しみなイケメン。
エンドロールに協力した関係機関がでてくるのを何気にみていたら、「生鮮市場」とあった!
つくし野にオープンしたスーパーの名前だ。つまり、撮影に協力したスーパーだったのは、我孫子のつくし野店はないけれど、埼玉で家族経営スーパーだというのが、草加市八幡町のお店がロケ地協力してた・・・・現実は奇なり、驚いた。
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