日本は中国に21ヵ条の要求を突きつけていたので「日本人は(ドイツ人に似て)好戦的で野蛮な国民ではないのか」という風評がたっていた。そのような時期に、後藤新平(当時、拓殖大学学長)の誘いに乗って新渡戸稲造が一緒に欧米の旅に出っていたのが、大正8年(1919)3月であった。事務次長についたばかりの新渡戸は、早くも日本人に対する風当たりの強さを敏感に察知していたが、「損してもよい、馬鹿を見てもかまわぬ、と覚悟を決めて、何をやるにも日本人らしく立派に振舞いさえすれば、だんだんと了解しますよ」と杉村陽太郎(新渡戸の後任の事務次長)に言い含めている。
それから数年後のある年のクリスマスでのこと、連盟職員が数百名集まった折、「このジュネーブ(つまり国際連盟)で最も人気のある人物の名を順に3人あげよ」と、人気投票をしたことがあった。その集計した結果、大変なことが起こった。全員が新渡戸の名(InazoNitobe)をナンバーワンとして書いたのである。2位と3位はばらばらだったのに、新渡戸の1位だけは全員一致していた。人気投票といっても、もちろん人格識見なども入ってのナンバーワンだったと思われる。新渡戸という人の評判は、もうこのくらい国際連盟で確固たるものになっていたのである。
4月、新渡戸はアメリカに旅立った。大正13年(1924)7月に排日移民法が施行されたのに憤慨してから、二度とその地を踏むまいと誓っていた新渡戸がアメリカに赴く決意をしたのは、一説には昭和天皇に後押しされたからと言われている。新渡戸にとってそれは「暗黒の中に入っていく(ような)気持ち」だった。
その心持ちを新渡戸は渡米直前の大阪英文毎日(3月19日)の「編集余録」に、次のように書いて自らを納得させている。
「上司の不興を買い、群集の怒りを招くのは、私の家の伝統なのだ。私の曾祖父(維民)は封建領主と意見をあえて異にしたかどで、(下北半島へ)追放に処せられた。私の祖父(傳)は、維新戦争の際は負けた賊軍側だったが、幾度脅迫を受けたか知れぬ。私自身の父(十次郎)は、いわゆる蟄居閉門中に死んだ」
しかし新渡戸は、これら3代の父祖はすべて「政治的な罪で罰せられ」た「名誉ある禁固の形」であるとして一種の誇りさえもっていた。それを考えれば、自分がアメリカに交渉に行くことなど何でもないことだと自ら納得できたのである。
折悪しく、新渡戸の渡米直前には満州国建国が、渡米直後には犬養毅首相の暗殺などが相次いだため、アメリカの世論は日本を軍国主義化の一途をたどりつつある国と決めつけていた。しかし、新渡戸には、自分にとってまったく不利なことでも、それが日米の平和の構築、戦争の回避という大きな目的のためなら甘んじて受ける寛厚な度量があった。むしろこの役目は自分にしかできない、こういうときにこそ自分が引き受けるべきだと、彼は次のような憂国の歌を詠んでアメリカへ向かった。
「国を思ひ世を憂うればこそ何事も 忍ぶ心は神ぞ知るらん」
新渡戸の主たる目的は、日本の満州政策についてアメリカの誤解を解き、対日感情を和らげることだった。新渡戸には「中国大陸は無政府状態にあるので、満州国を建国した日本こそが防波堤となってソ連の進出を食い止めている。なにもそれ以上に中国の土地を欲しいというのではない」という確固たる認識があった。それをアメリカは分かっておらず、まして日本人は口べたなので、あえて自分が代弁しにアメリカへ赴くのだという強い思いがあった。
そのため彼はアメリカで100回以上もの講演をこなし、各地で日本の立場を切々と説いた。しかし同年6月にフーバー大統領と会見したとき、彼から「最近起こった暗殺(犬養首相のこと)は、われわれみんなにショックを与え狼狽させた。日本は国際的政治に通暁した公僕を1人失った。私は日本の指導的立場の人たちが将来日本をどうしようとしているのか不安である」と言われるなど、新渡戸は非常に厳しい立場に立たせられている。このようなフーバー大統領の言からも分かるように、アメリカの世論はすでに日本にはまったく厳しく(反対に中国には好意的だった)、新渡戸の講演などでくつがえるという期待は薄かった。新渡戸はなおも全米各地で講演し、翌8年(1933)3月24日に帰国している。彼の傷心はいかばかりだったろうか。
しかし、その彼に、またもや追い討ちをかけるような出来事が発生した。彼が評判を上げて帰ってきた国際連盟を、日本がいとも簡単に脱退してしまったのである。帰国して3日後のことであった。
それでも、新渡戸は最後まで諦めなかった。同年8月、体調不良をおして、カナダで開催された第5回太平洋会議に日本の団長として出席し、改めて国際平和を訴えたのである。しかし、ビクトリア市で病床に臥し、10月15日、ついに帰らぬ人となった。我孫子のゆかりの人、嘉納治五郎といい、岩手生まれの新渡戸稲造といい、国際感覚に優れた人がいて、国際社会に敬意をもって認められていた。戦意高揚の社会風潮の中で正しく先を見ていた人の考えが無視されてしまった時代であったが、後々に気づかされることがある。
出典HP:https://shuchi.php.co.jp/article/1126?p=1
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