2018年08月10日

知られざる第二次大戦、日系部隊の死傷率314%

1868年、日本最初の移民がハワイに向かった年から150年が経った。
153名を乗せた船は、34日かけてハワイに着いた。

ハワイで一旗揚げたい人、貧しさが嫌で飛び出した人のほとんどが17歳から23歳の男性だった。
ハワイは製糖産業で人手不足だった。

夢と希望を持って渡ったものの、労働の内容は故郷でしていた事とほぼ変わらない。
「話が違う」「帰りたい」と言う人も出てきて、40人が帰国。
100人が残った。契約の3年が過ぎた。ほとんどが、帰国しなかった。
中にはアメリカ本土に渡った人もいた。しかし50人は、ハワイに残った。
そこで、結婚したり、事業を始めた。そして、二世、三世が生まれた。

ところが、パールハーバーが彼らの運命を変えた。
日本人というだけで不当な扱いを受けた。
二世は、自分たちの子孫を守るためにもアメリカ軍に志願兵となって戦った。

それが、米軍の伝説にもなる442連隊。
彼らの活躍によって、日本人が認められることになる

第二次世界大戦中、士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成された。
第442連隊はヨーロッパ戦線の激戦地に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。
その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。
特にその負傷者の多さから、「パープルハート大隊」とまで呼ばれた。

約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、米国史に名前を残すことになった。

アメリカ政府は、真珠湾攻撃の後、アメリカ国内の日系人社会の動向を不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。そして彼らは有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の辛い状況に置かれていた。

ハワイ準州(Territory of Hawaii)居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く[3]、生活や経済が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、当局は日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人をホノルルのサンド・アイランドの収容所に収容、後に人数は数千人に増え、オアフ島のホノウリウリ抑留キャンプをはじめ、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島(一部は本土)の数か所に強制収容したものの、全日系人が対象とはならなかった。

イタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていたので、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入して、第442連隊戦闘団をベルベデーレ、ピサなどイタリア北部での戦闘に参加させた。1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りであった。20日には町を攻略したものの、第36師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(John E. Dahlquist)少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続した。

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、テキサス大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられる激しい戦いだった。また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)に十月に一緒であったダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、ダールキスト少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、K中隊の残りは彼らだけです(That's all of K company left, Sir)」と答えた。その報告を聞いたダールキスト少将は落胆の余りスピーチさえ出来なかったという。10月に第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたたのである。なお、戦後のブリュイエールでは、ダールキストが団長として率いた部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。

参照:Wikipediaパールハーバー攻撃より約1カ月前の1941年11月1日、米陸軍は極秘でMIS(陸軍情報局)の語学学校を開設した。これは日米開戦を想定した学校で、6000人以上の2世がMISに志願した。第100大隊と第442連隊がヨーロッパ戦線に従事したのに対して、彼らは太平洋戦線で白人兵士と一緒に、前線で捕虜の尋問や収集物の翻訳、また日本軍の通信傍受などの任務に就いた。いかに、米国が用意周到であったか、日本が宣戦布告の手続きを経るはずが、稚拙な連絡網で不意打ちの開戦といわれる不名誉を犯したかであるが、歴史的な後の祭りである。

太平洋戦争開戦前年の1940年、政府は全米で徴兵制度を再導入した。同時にハワイ領防衛軍も正式に米軍の一部となり、3千人余りが徴兵された。パールハーバー攻撃後、米軍が頭を痛めたのが、その半数にあたる日系兵士の扱いだ。軍部はミッドウェー海戦の勝敗いかんで、日本軍がハワイに侵攻する可能性大と見ていた。日本兵が米軍の軍服に身を包んで紛れ込むと見分けがつかない。そこで出した対策が、日系兵士を集めて本土へ送ることだった。
 
こうして生まれたのが、ハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」だ。彼らは極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られたが、第100大隊という呼称に、軍の戸惑いが見え隠れする。通常、師団の下に連隊があり、連隊は第1〜第3大隊で成り立つが、日系兵士の大隊には、所属すべき連隊や師団がなかった。そもそも戦場に送り出すのが目的で結成された大隊ではなかったからだ。100という突拍子もない数字は、とりあえず訓練場に送り込まれた兵士たちの立場を象徴していた。彼らは自分たちのことを「ワンプカプカ」と呼んだ。ハワイ語でプカは穴という意味。その延長でゼロもプカという。
 
前述のイノウエ議員の言葉にもあるように、日本軍の奇襲を目の当たりにした彼らは、自分たちの置かれた立場に、さらに危機感を募らせていた。訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出て忠誠心を示すのが、唯一の生きる道だと考え、モットーはあえて「リメンバー・パールハーバー」と決めた。訓練で彼らは驚異的な成績を残した。重機関銃の組み立ては陸軍平均で16秒だったが、第100大隊が残した平均記録は5秒だ。重機関銃分隊の行進は、普通1時間4qのペースのところ、彼らは1時間5.3qのペースで8時間ぶっ通しで歩いた。だがこの時点で、第100大隊が戦場に出る可能性はゼロに等しかった。
 
なぜなら米軍は開戦後、日系人の志願を禁止していたからだ。軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていた。この不信感を覆したのが、ワンプカプカの優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。
 
ハワイ大学の学生たちは、当時ROTC(予備士官訓練)が義務付けられていたが、開戦後早々に、日系人学生だけが突然解任された。そこで彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも日系二世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
 
彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。1943年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊戦闘団の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。
 
志願兵募集に、ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、本土の兵役年齢にある日系二世男子のうち志願したのは、わずか約5%だった。強制収容所にいた二世たちの、苦しい胸のうちが透けて見える。
 
「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここにいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」(元442連隊のケン・アクネさん)。


第442連隊戦闘団は、休む間もなく失われた大隊救出の命令を受けた。この理由は明らかではない

1943年9月8日、連合軍によるイタリアのサレルノ上陸作戦でイタリアが降伏し、イタリア各地はドイツ軍によって制圧された。ローマ入城を目指して第100大隊がサレルノに上陸したのは、同月22日。初戦から「前線で決して振り返らない兵」と称賛を得たが、彼らが真の勇敢さを発揮したのは、モンテ・カッシーノの戦いだ。カッシーノはドイツ軍が連合軍のローマ侵攻を防ぐために死守せんとしたところで、イタリア戦線の激戦地として知られている。イタリア上陸時、1300名いた第100大隊の兵力は、カッシーノ戦後には半分以下になっていた。
 
その後、連合軍のアンツィオ上陸作戦に参戦するため、第100大隊もアンツィオの前線に就く。ここを突破すれば、ローマを陥落させたも同然だった。この頃、激化した東部戦線におけるドイツ軍兵力を分散するため、西部戦線を作り出さんと、連合軍は北フランスからの上陸を計画していた。これが「史上最大の作戦」と呼ばれる、総兵力300万人以上を投入したノルマンディー上陸作戦だ。フランスを奪回するには、北フランスにあるノルマンディー上陸と、南フランスへの道を切り開くアンツィオ上陸が重要なポイントだった。ここでも第100大隊は、積極的な戦闘で多大な功績を残した。アンツィオが陥落し、連合軍がローマを占領した翌日、ノルマンディー上陸作戦が決行された。
 
訓練を終えた第442連隊に、イタリアへの出動命令が出たのはこの頃だ。連隊のモットーは「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)」。元442連隊のノーマン・イカリさんが語る。「ナポリに到着したら、僕らを見つけた白人部隊が『ワンプカプカ!』と手を振って喜ぶんです。それで先陣だった第100大隊が、日本人部隊の評判を築いてくれたのだと知りました」。何カ月も連合軍の到着を待っていた人々は米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した。
 
第442連隊戦闘団が第100大隊とチームを組んで参戦したのは、ローマ北部のベルベデーレ戦から。ベルベデーレ突破には数日かかると見られていたが、第442連隊が要した時間はわずか3時間弱。前線に出てから約1年で、日本人部隊はすべての司令官が欲しがる部隊となった。9月末、彼らは連合軍が苦戦していたフランス戦線に参戦するために、戦闘半ばでイタリアを離れた。

■ブリエアの解放と失われた大隊救出
ドイツとの国境に近い小さな山間の街ブリエアは、当時、ナチ親衛隊のSSが牛耳っていた。この一帯には、針葉樹がうっそうと生えた「黒い森」と呼ばれるボージュ山脈が走っており、多くの師団がこの「黒い森」で、ドイツ軍の激しい抵抗に遭い足止めを食った。無数の地雷が仕掛けられた森の中を、第442連隊は懸命の前進を続け、10月19日、ついに彼らはブリエアに抜けた。ノルマンディー上陸以来、SSの監視下で何カ月も連合軍の到着を待っていた街の人々は、米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した。
 
ブリエアの解放後、連合軍はドイツ入城を目指して、山脈をさらに東に進んでいった。ちょうどそのころ、無理な戦法で敵陣地に侵攻したテキサス部隊がドイツ軍に包囲されてしまった。このニュースは、「失われた大隊」としてすぐさま全米に発信された。第442連隊戦闘団が「失われた大隊救出のための出動準備」命令を受けたのは、休息のために近隣のベルモント村に入った翌日だった。炸裂する砲弾の中を駆け抜けること4日間。ついに同じテキサス連隊の仲間でさえ助け出せなかった「失われた大隊」を救出した。212名のテキサス兵救出のために、日本人部隊が出した死傷者は約800名に上った。
 
現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは、人種のいかんに関わらないことを改めて教えてくれた米軍第442連隊戦闘団の兵に捧げる」と刻んである。
 
ブリエアで多大な死傷者を出した第442連隊は、多くの補充兵が投入された後、1945年4月、極秘でイタリアに戻った。ドイツ軍が9カ月かけて築いた北イタリアの防衛線「ゴシックライン」が、日系部隊が離れていた半年間、まったく前進していなかったため呼び戻されたのだ。「日系部隊が来たからには、1週間で突破できる」と期待された防衛線の砦モルゴリト山は、第442連隊の奇襲作戦によりわずか31分で陥落した。連合軍がゴシックラインを突破して半月後、ヒトラーが自殺し、翌月、ドイツ軍は降伏した。


出典HP:http://www.us-lighthouse.com/life/japanese-american/442nd-special-unit.html
posted by Nina at 00:00| 千葉 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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