テレビをつけたら偶然「和田重次郎」というは約百年前のアラスカの探検家の軌跡について知った。戦前の日本がどういう状況であったかと言えば、白人社会の優位のなかで黄色人種は蔑視されていた、そういう時代に格段に体格差のある日本人がその不屈の精神で欧米人を凌ぐ働きをしていた。感動の実話であったが、排日機運の時代に建てられた銅像も撤去されて、まさに知る人ぞ知るになっていたという。それを郷土の歴史を調べていた校長先生が掘り起こして、和田重次郎の郷里に銅像を建て後世にも顕彰したいとの思いが市民運動になり、銅像はもちろん、胸像、歌碑をも建てるまでになったという。それはさらに劇団の演目になり、アラスカ公演も上映され、アラスカの日系人会の発意でアラスカにも銅像が建立された。さらに、和田重次郎と共にカナダまでも探検したイタリア人探検家がおり、そのフェリックス・ペドロについて研究するイタリアの研究者とも協力することになった。追記に記したが、スピルバーグのアニメ映画「バルト」は和田重次郎が開拓した雪道(トレイル)によって、後に多くの人命を救う事になった感動の実話をアニメ化したものだった。海外での評価が消えかかった日本人の再評価に繋がってきたと言える。
*** *** *** *** ***
和田重次郎は北極圏六千キロの探検をし、冬になると遭難者が出るアラスカで、明治後半から大正にかけて未開発地域の地図を作成するなど、和田重次郎は危険な雪道に標識を建ててユーコンのドーソンまで前人未踏の行程をただ一人犬ぞりで走行した。アラスカで知らぬものがいないほど名声を馳せました。その15年後にジフテリアで町が全滅の危機にあったが、治療のために血清が必要で、そこで和田重次郎の道を犬ぞりで移動して1万人の市民が救われたという。
それは、まるで作り話の物語のような波乱万丈そのままに、17歳のときに捕鯨船の茶箱の中に忍び込み、アメリカに密航。サンフランシスコに到着するも、北氷洋捕鯨の補給船バラエナ号で3年間をキャビン・ボーイとして過ごす。越冬のため停泊していたカナダのハーシャル島でイヌイットやその犬橇と出会い、交流を深める。3年間の越冬中重次郎は、気さくな船長から英語や航海測量技術を学び「バラエナ号」の充実した図書館にあった本はすべて読んで3年後には十分な英語能力をもつ。また、ハーシェル島で交流を深めた原住民ののイヌイット達からは犬ぞりの扱いや極地での自給自足の生活方法などを教わり、、誰もが認めるマッシャー(犬ぞり使い)になった。1894年(明治27年)、バラエナ号との契約期間を終え、サンフランシスコに戻る。報酬を日本の母に送金した後、アラスカに戻り、犬橇を駆って、狩猟で得た毛皮で交易を行う。1896年(明治29年)、日本に帰国し、3ヶ月後に再び渡米、補給船ジェニー号の乗組員として、ポイントバローに寄港。遭難していた捕鯨船ナパック号の救助にあたる。その後、乗船していたジェニー号もスミス湾上で氷に閉じ込められ、食料も尽きる頃、重次郎が犬橇隊を先導し、カリブー猟を行い、ジェニー号と補助船ニューポート号の食料を確保、乗組員の命を救う。その後、補給船の乗組員として、アラスカ各地に渡り、金鉱脈の発掘を行う。1903年(明治36年)、チェナーでの金鉱発見をいち早くドーソン・シティの新聞に伝え、アラスカ史上に名高いゴールドラッシュを引き起こす。1906年(明治39年)、米国の市民権を要請するも拒否されていた。1907(明治40年)32才、ハーシェル島から厳冬期の北極海沿岸700マイルを走りノームに戻ってきた重次郎はイーグルス・ホール竣工記念50マイルマラソンに出場し優勝し500ドルの賞金を手に入れる。 翌月もマイルレースに出場し優勝、賞金2800ドル(当時の日本円で4000円位)を得た。 (ちなみにその時代の日本の大工の日当は一日1円だった)アラスカの新聞は熱狂的に重次郎の勝利を書き立てた。
アイシー岬にある三つの原住民キャンプが銃も持たずにアザラシを捕まえ、毛皮を買い叩く白人商人には英語で交渉し、原住民達にとっては頼りになる男となり、原住民は相談してキングになることを要請した。キングとしてイヌイットの一団と毛皮を売りにノームに現れる。その際、集金した代金を全て盗まれる。重次郎が着服したとの嫌疑をかけられ、留置場に入れられるが、裁判では、二人のエスキモーの証言によって無罪放免となる。キングになった重次郎は指導力があって良いリーダだったので、夏には鯨がたくさん獲れ、キャンプには色々な獲物に恵まれ、ここで原住民の妻との間に一人娘、日米子(ヒメコ)=ヘレン・ワダ・シルベーラを授かる。1908(明治41年)33才の冬、ドウソンを主発してユーコン河を蒸気船で下り、ベーリング海に面するセント・マイケルでマラソン・レースに出場しそれからノームに出て捕鯨船に乗りハーシェル島を一巡する5000マイルのサーキットの旅を達成した後ノームに戻った。
1909年セワード商工会議所から、セワードからアイディタロット鉱山までのトレイル(雪道)の開拓を依頼され、30隊の犬ぞりを率いて氷点下60度の中、2か月かけて冬の物流ルートを重次郎が開拓した。スワードの歴史家は、和田重次郎のおかげでスワードが物流拠点となったと認めている。エスキモーをも超える2万6000マイルの犬ぞり旅行、さらに金鉱捜し、狩猟と冒険生活で名声を高め1909年9月18日付けの「ザ・シアトル・ディリー・タイムズ」の一面トップを華々しく飾った。
この後も厳冬のノームからフェアバンクス迄をブリザードに悩まされながら犬ぞりで21日で走破する新記録を出すなど19年にも及ぶアラスカ・カナダ北部の体験をすることになる。
1912年(明治45年)、タバスコ王、エドワード・マキルヘニーと組んで鉱山開発に取り組むも、日本のスパイ説が流布され、身を隠すことを余儀なくされる。その間もカナダ北部を拠点に北極圏を犬橇で走り回る。1920年(大正9年)頃には、カナダで石油探査員として活躍、石油シンジケートの代表も務める。
1924年(大正13年)、ノームでジフテリアが大流行し、千四百余人の住民が全滅の危機にさらされるが、レオナルド・セパラと愛犬トーゴー率いる犬橇隊が、町を救うことになる。アイディタロッド・トレイル開拓時代に、重次郎が走ったトレイルを逆走して、フェアバンクスから犬橇で血清を運ぶことができ、人命を救えた。これを記念して世界最長の犬橇レース、アイディタロッド国際犬橇レースが1973年から始まる。世界一過酷な犬ぞりレースと言われる「ユーコン・クエスト」は、ホワイトホースとフェアバンクスの間約1,600キロで行われ、出発式は、毎年交互に行われるユーコン・クエストのコースは、和田重次郎が開拓したトレイルを使っている。
和田重次郎(1875〜1937年)は松山市日の出町に暮らし、長い空白の時期を経て、2007年に故郷の地に胸像、顕彰碑がつくれた。その台座に2016年5月1日、新たな一文が刻まれた。子孫ら関係者約70人が除幕に立ち会い祝った。その前年、重次郎ゆかりの地の米アラスカ州アンカレジで重次郎の生涯を描いたミュージカルがみかん座によって上演されたことが刻まれたのだ。2016年アラスカのスワードにも重次郎銅像が建った。
ニューヨークのセントラルパークで犬橇犬の銅像を探すおばあちゃんが孫娘に昔話をする回想シーンからアニメ「バルト」が始まる。それは1925年のある日、アラスカの町ノームでジフテリアが流行し多くの子供が感染、町は存亡の危機に陥る。船や飛行機での血清の輸送を試みるものの、猛吹雪が続いておりノームの町に血清を届けることは困難であった。ノームから1000キロ離れた町へ血清を取りに行く犬橇チームが結成され、リレーによって運ばれる。物語の主人公犬・バルトは最後のチームを率いる犬であった。最も過酷な走行が行われたのは最後から2番目のトーゴーと言う犬のチーム。この作品は、スティーヴン・スピルバーグがイギリスのアンブリメーションスタジオで製作した最後のアニメーション映画(1995)として作成された。ヒントとなったのが、1973年(昭和48年)、ノームでのジフテリア被害を救った犬橇隊の偉業を讃え、港町スワードとアイディタロッドを結ぶ800kmで、アイディタロッド国際犬橇レースが開催され今日まで続いている。アンカレッジ と ノーム間を結ぶ1862キロの世界最長の犬橇レースも行われている。これらは和田重次郎の築いた行路でのドッグレースだったのであった。
元素鵞小学校校長・上岡治郎は子供のころに愛媛県出身のアラスカ開拓者和田重次郎の偉業と母セツへの孝養の逸話を父親から聞かされた。校長になったとある時に、その親戚という人物から資料を手に入れることになり、不思議な縁を感じ、その後、精神をこれからの日本を担う若い人たちに顕彰したいとの目的で、和田重次郎顕彰会を立ち上げ、会長となる。2006年顕彰碑の建立を企画、2007年9月には和田重次郎が幼少期を過ごした松山市日の出町の河川緑地公園に顕彰碑、胸像、文学碑の三基を建立。2009年にNPO法人和田重次郎顕彰会が設立。2015年5月には、和田重次郎の生涯を描いたみかん一座ミュージカル「オーロラに駆けるサムライ〜和田重次郎物語〜」をアラスカにて公演した。顕彰会は、アラスカ公演をきっかけに和田重次郎を通したアラスカ、カナダとの交流を深め、和田重次郎を日本全国、アメリカ、カナダ、さらには全世界へと発信する。和田重次郎顕彰会は、2017年度第8回「地域再生大賞」優秀賞。
2017年、重次郎とタナナ平原で一緒に金鉱を発掘したフェリックス・ペドロの生まれ故郷であるイタリア・ファナーノで重次郎を紹介するシンポジウムが開催されるなど、和田重次郎の顕彰活動は、国際的になっている。
2018年04月29日
この記事へのコメント
コメントを書く