43:00〜 夢を叶えるために、捨てきたいくつもの事がある・・・。「スケートに人生かけているな」と、9歳の時に思った。23歳とは思えない、答えも完璧な人だ。仙台、宮城県に来てください、復興の力になります、とも加える。一つ一つ質問をかみしめ、メディアの様々な角度からの切り替えしにも、エッジを研ぎ澄ます、超絶の23年の人生を驕ることなく高く舞っている。
主要な戦績として、2014年ソチオリンピック・2018年平昌オリンピック優勝、2014年世界選手権・2017年世界選手権優勝、グランプリファイナル4連覇(2013年-2016年)、全日本選手権4連覇(2012年-2015年)。
男子シングル競技における、ショートプログラム(112.72点)、フリースケーティング(223.20点)、トータルスコア(330.43点)の現世界歴代最高得点記録保持者である。世界ランキング最高位1位。世界ランキングは2013年10月より1位を保持している。
世界記録は2012年から2017年の間に12回更新しており『レコードブレーカー』と称される。ISUジャッジングシステムのもとに開催された国際大会において、史上初めてショートプログラムで100点、フリースケーティングで200点、トータルスコアで300点超えを達成した男子選手である。
名前は「弓の弦を結ぶように凛とした生き方をして欲しい」と父が命名した。血液型はB型。2歳の頃から喘息の持病があり、スケートを始めた当初の目的のひとつは、喘息を克服することにあった。15歳の時に、喘息の持病がありながら五輪金メダリストになった清水宏保に会う機会があり、スケートを続けていくための助言を得た経験がある。
肺を大きく開いて息を吸い込むことができないため、特に10代の頃は体力や持久力の面で劣ると指摘されてきたが、投薬治療、吸入薬、鍼治療、気道を開く施術、移動時や練習時にマスクを着用することで心肺機能を上げるなどの対策を続け、体力面のハンデは大幅に改善された。しかし完治したわけではなく、特に練習拠点をカナダに移してからは、環境の変化により激しい発作に襲われることが増え、現在(2017年時点)も発作を起こすと明かしている。
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。地震発生時には仙台市のアイスリンク仙台で競技の練習中であり、スケート靴を履いたまま外へ避難した。羽生本人や家族、コーチやリンクメイトは無事であったが、同リンクは被災して営業休止になり、自宅も大きな被害を受けたため避難所で4日間過ごした。震災で多くの死者・行方不明者が発生し、大勢の避難者が避難所生活をしている中、スケートを続けることへの疑問を抱いていたが、自身が在学する東北高校野球部が避難所でボランティアをしながら第83回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ甲子園)に出場し、3月28日の初戦を全力で戦っている姿をテレビで観て、スケートへの意欲を取り戻した。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の41日前に生まれた羽生は、4月9日に開催された兵庫県スケート連盟主催「東日本大震災チャリティー演技会 〜復興の街、神戸から〜」に招待され、東北高校の先輩の田村・本田・荒川らと演技を披露した。4月からは、テクノルアイスパーク新井田(青森県八戸市)や、かつて師事した都築コーチがいる旧・東神奈川スケートリンク(現・横浜銀行アイスアリーナ)を仮の拠点とし、復興支援目的のアイスショーへ多数出演して各地を転々としながら練習を続けた。7月24日、アイスリンク仙台が営業を再開したため、羽生も拠点を戻した。
今もスケート靴の調整は、中学生の頃から仙台市(現在はアイスリンク仙台隣接地)に工房が担当している。カナダに練習拠点を移して以降も、小包で送るか帰国時に持ち込んで調整を依頼しており、工房でも羽生専用の研磨機を用意して対応している。
演技前に必ず行う胸の前で十字を切るような動作は、実際には「士」の形を描いており、「ジャンプの回転軸と両肩を平行に保つ意識を確認するためのおまじない」である。2015年11月以降から、両手で天を仰ぐような動作を最後に加えるようになった。
影響を受けた選手として、エフゲニー・プルシェンコ、ジョニー・ウィアー、ステファン・ランビエール、ハビエル・フェルナンデス、ディック・バトンを挙げている。同郷の荒川静香は東北高、早稲田大(荒川は教育学部)でも先輩(13歳上)にあたり、彼女の代名詞であるレイバック・イナバウワーを自身の演技に取り入れ、荒川へのリスペクトを示している。
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