白樺派はトルストイの影響を受けたということが言われ、その方面からの研究もされてきました。
そこで、インターネットでトルストイを調べてみると、なんと晩年の1906年からの様子を映した貴重な映像が公開されていました。
トルストイはロマノフ王朝にもその矛先を向けたために、多くの出版物が販売禁止になり、教会からも破門されています。
四女アレクサンドラ・トルスタヤは、1929年に日本へ出国し、1931年にアメリカ合衆国へ亡命。著書『お伽の国‐日本―海を渡ったトルストイの娘』で日本での二年間の滞在記を記している。玄孫のウラジーミル・トルストイ(ロシア語版)は、ウラジーミル・プーチンの大統領顧問にもなっています。
雑誌『白樺』が1910年4月に創刊されました。その年の11月に亡くなったのでトルストイへの関心が頂点に達していきました。日本でもトルストイ人気が高まっていく最中、しかもロシア革命の起きた時代でした。白樺派の武者小路実篤、柳宗悦らがトルストイに面会した徳富蘆花と会って、蘆花が郊外で田園生活を楽しむのを知ったことも影響したのか、我孫子町(当時)に移住することを決めました。柳宗悦によって、英国人陶芸家バーナード・リーチも仮寓するようになり、朝鮮人や中国人の留学生との交流、インド人陶芸家なども来訪する10年ほどの国際的芸術共同体が成立することになります。今から、約百年前に驚くべき形で我孫子は世界とつながっていました。
どうぞ、18日にお話を聞きにいらしてください。
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裕福な侯爵家に生まれたトルストイは、1830年、2歳のとき母親を亡します。9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都であるモスクワへと転居、しかし、同年6月に父親も亡くなります。祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザンに住む叔母に引き取られ。1841年にはカザンへと転居しました。
1847年、18歳でヤースナヤ・ポリャーナの領地を相続した当時、1,800ヘクタールの土地と三つの村、そして300人の農奴がいたということです。この 300人というのは、労働のできる年齢の男性のみの数です。 トルストイのかなり浪費的な生活で、21歳になるまでその相続財産の大部分を使い果たしてしまます。彼が27歳でコーカサス戦争から戻ってきた後、ロシア社会の様々な面を見た彼は、自邸に農民のための学校を設立しました。そのうち運営資金に充てるため本宅も売り払われ、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指しますが、農民に理解されず失敗。というのも夫のある農婦と道ならぬ中になり子供までできていたが、身分違いを嫌う時代で思うに任せずとなりました。トルストイは、貴族的な女性より、どうもコサックやジプシー、農婦といった生命力溢れる女性に惹かれる質でした。それは貴族 トルストイに とっては必然的に深刻な倫理的・社会的問題を突きつけることになっていきました。トルストイは貧しいものに目を向けるようになり、農民に土地を分け与えて、家を建ててやり、学校を建てて自ら教師にもなった。土も耕すようになりました。非暴力の反政府主義といった独自の教義(トルストイ主義)を作って、1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたりました。村の人々の暮らしを知るにつけ自分の置かれている地位とか富を恥じるようになりました。モスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ったのち、結婚、作家として作品は人気を博していきました。
1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職、同年には18歳のソフィアと結婚し、生地ヤースナヤ・ポリャーナに居を定め、9男3女が生まれます。妻となったソフィアは夫の激しい気性に耐えて、『戦争と平和』の原稿を、夫が手直しするたびに何度も手書きで浄書した。しかし、『アンナ・カレーニナ』以来、トルストイは小説を書かなくなり、しかし50歳を過ぎて、子どもや家族が相次いで亡くなる不幸に見舞われると、生きるとは何か、何故生きるのかといった哲学的な世界に入っていきます。知識人に向けて書かれたその他の作品でも道徳的な主題ながら、優れた創造力を発揮しました。1885年に著作権を放棄することを試み、地主としての地代を放棄を思い立ちますが、それは13人もの子だくさんの暮らしであるため、妻・ソフィァがなんとしても私有財産を守ろうとする中で軋轢を生じさせました。夫婦の間そんな夫を年齢も違いも大きいソフィとしては理解できずに溝がふかまりました。
トルストイから「散歩に行こう」と誘われると、彼の友人や家族は少し困惑するほど、 彼の散歩は何時間も続いたし、速いペースで何キロも歩いて平気でした。他の者はついていけなくなり、くたくたになったが、彼は、80歳を超えても強靭な歩みを続けました。1886年、9年ぶりに『イワン・イリーチの死』を発表しました。想像力に溢れた小説の創作に立ち戻ったトルストイは、ロシアの農民をテーマにした多くの簡潔な教訓的物語を書きました。さらに、帝政と正教会に敵対して、19世紀前半から弾圧を受けてきたキリスト経の一派、ドゥホボル派信者のカナダ移住のための基金を得る目的で、晩年の傑作『復活』(1899)が書かれたのでした。かつてある娘を弄んだことから良心の呵責にさいなまれるひとりの貴族の精神的再生を描くこの長編小説は、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』と並んで、トルストイの3大名作と呼ばれるようになります。1904年、日露戦争が勃発すると、戦争行為を痛烈に批判して、両国民の反省を促す一文を発表しました。真実の探求者、伝道者あるいは預言者として、トルストイは世界中から注目される人物となっていました。
しかし、公的な発言力とは別に、自分の信条と莫大な財産との間の矛盾や、財産を放棄しようとする彼に反対する夫より16歳若い妻とは絶え間ない口論が続くようになって、トルストイの内なる苦しみは増していきました。そして遂に、トルストイ82歳のある晩、家出をしてしまいます。しかし、この行の途中、彼は急性肺炎を起こし小さな駅で倒れます。この文豪の臨終間近を聞きつけた民衆大勢が駅舎の周りに集まり、中には新聞記者もいたのか、刻々の容態の発表を心配して、凍てつくロシアの屋外に夜通し祈りました。中央ロシアの寒村の駅アスターポボの駅長官舎で亡くなりました。農民にとって聖者だった彼の葬式は一万人以上にも見送られる盛大なものだったということです。遺体は生前の彼の言葉に従い、ヤースナヤ・ポリャーナの林の中に埋められました。遺言により墓碑も十字架もない簡単な墓でした。
2018年02月17日
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