我孫子別荘の始まりを調べてみると、今のところ最初に別荘用地として土地を取得したのは薬師問屋の7代目・島田久兵衛にたどり着き、この方は海外にも支店をもつ東大薬科卒の教養人。我孫子町以外にも別荘を持った粋な方だったようです。嘉納治五郎とは東大の同窓であったこと、また血脇守之助(野口英世の才能を見出し、米国留学費用を与え世界的な学者になるべく送り出した。日本の歯科医学会の創始者。我孫子出身)とは師弟関係にあった為、我孫子の様子を耳にして、自身の学園構想の夢を膨らませた。さらには、嘉納のもう一人の弟子が、村川堅固(東大西洋史の重鎮)であって、川村も我孫子にも別荘を持ち、親子二代で水辺の別荘ライフを楽しんだ。さらに、杉村楚人冠(本名・廣太郎。人気エッセイスト。日本ジャーナリズムの祖)も嘉納をリスペクトする人物であって、別荘転じて関東大震災後には自宅として永住することにした。
白樺のまち・我孫子となる、文人たち、画家、声楽家、陶芸家がやってくるのは、嘉納治五郎の甥が柳宗悦であったからであり、叔父、甥ともに哲学科卒ということであって、選ばれし土地であったことを私たちはもっと知ると、この地に暮らす「徳」が分かり、得にもなりそうです。
下記は、海津にいなが調査して、カメラに収めた「嘉納治五郎」の顕彰の様子です。クリックすると拡大します。
講道館ー英文碑文
占春園(茗荷谷・元東京高等師範跡地)−筑波大学(旧・東京高等師範)−我孫子別荘跡

*上記、画像は全て学術研究に供される意図で撮影、海津にいなに版権があります。利用する場合は、ご連絡ください。