この若き芸術家たちの中に画家・フォーゲラーがいた。フォーゲラーに宛てて白樺派が手紙を出しており、それが縁で『白樺』の表紙デザインやロゴも引き受けていた。白樺の多い町・ヴォルップスヴェーデで、フォーゲラーは自邸を「白樺の家(バルケンホフ)」と名付けていた。

フォーゲラーにドイツ語で手紙を出したのは、当時、兼子に思いを寄せる若き柳宗悦だった。柳は200通を超えるラブレターを兼子に送ったことが後々に分かるが、白樺はは友情と恋愛にもロマンチックな青年たちだった。
下記のフォーゲラーのエッチング作品のタイトルは『春』、白樺の木立を前にして座る女性の衣服が和装の帯を結んだように見えるのは、フォーゲラーのジャポニズム趣味の表れと思われる。

我孫子の町は、どうやら北ドイツやデンマークの芸術村の田園風景の趣があったようで、日本の100年前には白樺派が我孫子に移住してきたと考えられる。今、学会ではこうした研究がされていて、我孫子との関係もいずれ重要視されて、海外の研究者も訪れるようになるのではと期待する。