田中久重という、エジソンと同じくらい天才的な発明家が 江戸時代後期に生まれていた。万年自鳴鐘を開発し、和時計と洋時計の機能を同時に持ち、太陽と月の1年の動きも刻みつつ、曜日や干支も刻み、二十四節気(カレンダーのようなもの。原品は国の重要文化財に指定)も刻む万能時計を開発した。
愛・地球博の時に、このレプリカ(復刻版)を展示しようとアイデアの下に100人以上の技術者と最新機材を投入したが、細工が細かすぎたうえにぜんまいバネの真鍮が作れず、ステンレスで代用するが、開催初日には間に合わなかった。よってたかって100人の現代的な知識をもってした技術者が舌を巻いたのだ。
田中久重は、これらを独学で勉強、さらに蒸気機関の勉強もして、蒸気機関車や蒸気船の動く小型模型の製造にも成功していた。 佐賀藩に招かれ、国産初の蒸気船を製造。佐賀藩内に反射炉を設備し国産大砲を大量生産。幕末維新の際佐賀藩はこういった技術や人材の流出を防ぐため、国内鎖国をし国境を閉ざしていたが、鳥羽伏見の戦いの時も静観していたので薩摩などは佐賀討伐を考えたが、藩主が上京し新政府に加わると、田中が作った最新鋭の兵器で旧幕軍を粉砕(上野戦争など)したという。
なんと、幕末の際に肥前佐賀藩が明治の藩閥政治の代表格、薩長土肥になれたのはこの田中のおかげだった。 大隈重信は少年時代の時に見た田中久重が作った蒸気機関車の模型で、蒸気機関車の重要性を理解していて日本初の鉄道に着手したのだと言われる。
明治になって、田中久重は東京に移って田中製作所を設立した。息子の二代目久重が引継ぎ芝浦に移転。後に東京電気株式会社を合併。東京芝浦電気株式会社と社名を改め、今の東芝となったのだった。
「からくり儀右衛門」といわれた田中久重のように、現・東芝には窮地を打開して欲しい。
2017年11月14日
この記事へのコメント
コメントを書く