手紙は、ジャーナリスト、我孫子在住の杉村楚人冠に宛てて昭和4年5月に出したもので、「杉村楚人冠記念館」が、楚人冠の遺族から寄託された資料の中から見つけ、筆跡や内容などから熊楠のものだと確認しました。熊楠は、同じ和歌山県出身の杉村に、田辺湾に浮かぶ神島に残された貴重な自然について記したうえで、生物の研究に熱心だった昭和天皇が神島を訪問し「粘菌を採取されることを強く願っている」としたためています。
当時、熊楠には天皇に講義を行うことが打診されていましたが、神島への案内は決まっておらず、この手紙では、「立ち寄られることをただ祈るだけだ」としています。実際には、1か月後に天皇の神島訪問が実現し、熊楠はみずから集めた標本を献上しています。南方熊楠顕彰会の田村義也さんは、「天皇を迎えたいという意気込みや期待感が表れた重要な資料だ」と話しています。
南方熊楠は、和歌山県田辺市を拠点として明治時代後期から活動した世界的な学者で、粘菌学や民俗学など多岐にわたる分野の研究で業績を残し、このほか、柳田国男(一時期、布佐に在住)とも交流がありました。
柳田は、熊楠のことを「我々の仲間はみんな日本民俗学最大の恩人として尊敬している」と述べています。二人の交流は、明治44年(1911)3月、柳田から熊楠に宛てた書簡に始っています。山神とオコゼに関する熊楠の論文がきっかけでした。それまでに、柳田は『遠野物語』などを出版、民俗学の先駆けとなる研究を始めており、一方、熊楠も民俗に関するさまざまな論考を学術雑誌に発表していました。
熊楠は8歳年下の柳田に対し、大きな影響を与えるとともに、高級官僚だった柳田から多くの支援を受けていました。また、熊楠が神社合祀反対運動を起こしたことに対して、柳田はさまざまに助力をしました。柳田の創刊した『郷土研究』に、熊楠はたびたび寄稿していました。しかし、柳田が日本独自の民俗学を目指したのに対し、熊楠は世界の民俗を比較し、性文化も含めた民俗学を目指していたため、考え方の違いは、次第に二人の交信を遠ざけていきました。後に、南方熊楠を「日本人の可能性の極限」と称賛した柳田は、没後の『南方熊楠全集』出版を強く奨励したのでした。
この我孫子での発見は、文化の秋に相応しい内容でした。
参考:NHK ニュースWeb 9月25日