そんな時、ネット検索していたら、太目で白髪のロックなJIJIYに進化を遂げたJULIEを発見(?)した。ご本人も古希を前にしている。還暦の時、ドームでライブしようと考えていたところ、制作会社はソレはないでしょのような態度、腰が引けていたのを感じて、却ってエンジンがかかったという。その前のあたりから『言いたいことを言わなきゃ』と思うようになったという。
そこで作ったのが『我が窮状(きゅうじょう=九条)』という歌、作詞がご本人だというのも驚きだ。
華麗なジュリー、セクシーなジュリーに似合わないことは言えなかった。今やそんな恰好をつけていられる体型ではなくなって、みごとに変容しているが、「60歳越えたら余生、死ぬ準備をしているようなもの。」だからと好きなことが言えるというのも、そうだなと。
18歳からショービジネスの世界で生きぬいてきた、いつまでもアイドルではいられない。ドラマ、映画、舞台と場所を変えても主演であることは変わらず、しかも、数々の賞もものした。 昔はジュリー、今はジジイ(笑)昔の名前を利用しながら、好きな事を、コツコツとやっていけると自嘲気味に話していらしゃる。
「ジュリー」と騒がれて、若い頃の細身で切れ長の目の美しさ、TVドラマで光源氏に配役されて、受賞作品になり、さぞかしの風情のあったのは当然といえる。しかし、年齢は誰にでも容赦がない、「時の過ぎゆくままにその身をまかせ」贅肉もつき、皺も、たるみ具合も堂々と晒し、容姿の劣化を隠そうともしない。これまで日本人は新しもの好きの悪い癖があったが、ちょっと待って、女性の美も男性の深みも年ともに皺や影のなかにも見ていくよう、チェンジを求められているようでもある。20代のころに沢田研二が69歳になるなんて、考えてみもしなかった。団塊の世代とともに昭和史を牽引した強みは、いま、団塊の男性たちにその歌唱力、演技力の凄みがじわりと伝わり、彼の動画、画像がアップロードされて、それが再生産されてファンを増幅している。
最後のアルバムのつもりだと言っていた、2008年のフルアルバムROCK'N ROLL MARCHを発売後、それでもファン向けに、4曲とはいえ毎年新曲を発売している。むしろ音楽への愛が消えないアーティストとしてスゴイことと考えるべきかもしれない。しかも、震災以降は、毎年3月11日に新譜を発表して、往年のファンにはあまりに社会的メッセージに偏りすぎだと批判も出る「黙っていない」アーティストに変貌していた。
ザ・タイガースは解散したのに、それからすっかり年をとってもう1回集まっても刺激的なものなんか生み出せるわけがないと思う。ビートルズやストーンズでもないかぎり、シワも増え、ルックスも体型も変貌して、メンバーが、あの時を超えるような歌や演奏を聴かせて、人が集まってくれるわけがないじゃないか。そう考えて当然だろう。そこを曲げて、聞いてみると、一世を風靡したザ・タイガースの再結成には、彼らならではのは美しいコーラス・ワークがあったと知られていった。とくにヴォーカル&ギターの加橋かつみのハイトーン、個性派俳優としても知られるベースの岸部一徳(四郎の実兄)の低音ヴォイスが相まった個性はなかなかのハーモニーだとYoutubeの動画が証明した。それまでの歌謡曲とも、その頃勃興していたロック・シーンとも別次元のポップ・ミュージックを作り出せていた事実を証明してたのだ。
久々のライヴなのに、彼らはサポート・メンバーを起用せず、5人の演奏を貫いた。それぞれのメンバーの音楽への情熱のほとばしるさまを見せてくれた。再結成は、なんと44年ぶり。つまりグループサウンズ(GS)の時代以来だ。解散から再結成までにここまで長い時間を費やしたバンドは、そうはないだろう(注/この間、1982年の「同窓会」、2011〜2012年の沢田研二のツアーへのメンバー3人の参加などはあった)。その背景には、解散後にドラムスの瞳みのるが中国語を教える道を選んだことなどがある。(再結成に至った経緯については彼の著書『ロング・グッバイのあとで』(集英社)、『老虎再来』(祥伝社)、『ザ・タイガース 花の首飾り物語』(小学館)に詳しい。
GSタイガースのメンバーであり、メンバーから脱退を宣言して、その後、中国へ留学、帰国に大学に進み、有名私立高で教鞭をとった。その瞳は中国滞在で出会ったのが、「送別」という曲・・・♪更け行く秋の夜、旅の空の〜♪ 日本では『旅愁』として広く知られている、しかし中国人はみな、中国の曲と思い込んでいるが、元はアメリカの曲だ。明治期に日本で音楽教育に使われてて、日本人にもなじんでいた。当時は清朝から多くの中国人留学生がやってきて、「和製の西洋文明」を学んでいたことから、この曲も、中国品留学生が中国に持ち帰ったものだったのだと分かる。名曲の、思いがけない来歴を知った瞳は、もう一度、音楽の道に戻ろうか――こう考え始め、たまたま沢田の歌う「ロング・グッドバイ」を耳にして再結成に応じたという。
さらに驚いたのは、沢田研二も中国語で見事に芝居をしたり、フランス語でも歌って、欧州でもレコードを発売して、ゴールドディスクを獲得して、その歌唱力を評価されていたことだった。彼らはルックスだけでなく、その絶えない上昇志向と見えないところで努力を重ねていたということだろう。
沢田研二は、NHK総合テレビジョンの『SONGS』に出演した際に『Long Good-by』を歌唱した。そして、そのことは頑なに拒んでいた瞳みのるをも加えて、2008年12月には沢田、岸部、森本と約38年振りのタイガースの完全再会を果たしている。
2011年2月出版の瞳の自伝のタイトルが、「ロング・グッバイのあとで」となり、ほぼ同時期に、ザ・タイガースの「復活」が具体的な話として盛り上がったことから、その重要な「要素」となったこの曲への関心や評価がにわかに高まってきた。
瞳とザ・タイガースのメンバーとの38年ぶりの対面は、元マネージャーである中井国二の尽力と、沢田、森本、岸部のこの曲へ委ねた瞳への想いが、たまたま放送を視聴していた高校の同僚教師から瞳へと伝わったことなどが指摘されているが、度重なる大病と退職にあたっての瞳の心境の変化、離婚、独自の日中間の音楽への思い入れが主因と言われており、その後、瞳はこの曲への返歌、「道」を作詞、作曲し、元メンバーたちへの感謝を表している。瞳はメンバーとの再会に際し、「老虎再来」という曲の作曲、作詞を行い、喜びを表している。これらはCDとして発売された。
男同士ではあるが、これらは現代版の「相聞歌」とも言うべきものであり、音楽を使っての、お互いの感情の「投げかけ」によって、感情的に次第に復元された元メンバー達は、このような過程を経て、「再結成」へ向けての準備を徐々に進行させていった。
2011年2月25日に東京・一ツ橋の如水会館で開かれた瞳の自伝出版記念パーティーでは、壇上に岸部一徳、沢田研二、森本太郎、そして瞳みのるが並んだことにより、瞳を含めたザ・タイガースのメンバーが揃って舞台の上に姿を現すのは実に40年振りとなり、約40年にわたる「ロンググッバイ」は終わりを告げた。
瞳(かつてはピーと呼ばれた)は芸能界引退後は中国語を学び、中国に留学もして、大学受験、某有名私立高でも中国語のになっていたが、定年退職の二年前に33年の勤続し退職。現在は北京在住で、音楽の日中友和の音楽普及活動にも力をいれる。日本文芸家協会の「ベスト・エッセイ2014」に、前年に「文藝春秋」に書いた「自由が丘の金田中」が選出され、文筆活動でも才能を発揮。2014年に、神奈川歯科大学特任教授に就任。
再結成の時期がきて、ザ・タイガースの武道館コンサートが行われた。特徴的だったのは、5人の意志が強く働いていたことだ。各人が役割をまっとうし(たとえば、自らを宴会部長と称したヴォーカルの沢田研二はチャリティ・シングル「THE TIGERSのWhite Chirstmas」の制作、ギターの森本太郎はアレンジ面を担当)、など。コンサートの第1部で洋楽のカバーを並べたのは、自分たちの原点を確認する意味があったはずだ。そして、第2部のオリジナル曲のセットでは「青い鳥」「花の首飾り」「君だけに愛を」といったヒット曲群に加え、80年代の「十年ロマンス」「色つきの女でいてくれよ」、さらに1969年当時の彼らの指向性を照射したコンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』からの楽曲がチョイスされていた。
そうした姿勢は、車いすで登場し岸部四郎が唄ったシーンで、より鮮明になった。実は、彼は2年前の沢田のツアー最終日でも同じく車いすの上でヴォーカルを披露しているが、それを、ついに歴代メンバーが初めてひとつのステージに集う瞬間が実現したのだ。ハンカチで目頭を押さえるファンもいた。沢田は「いつまでたっても、6人でザ・タイガースだと思っております」と、集まったファンに感慨深そうに語った。
そもそも彼らは、京都のアマチュア時代からの強い絆があるのだ。そして2013年のザ・タイガースは、魂と魂の交感が促した再結成だった。バンドの再結成にはこうしたヒューマンなドラマがつきまとうものだと、ビートルズのメンバーが再結成を果たすことはなかったものの、映像で、またファミリーで交歓しあう動画をみつけて、長く付き合える友達がいるのっていいな、と思う。
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