さだまさしは、地方でのコンクールに上位入賞するバイオリン少年として上京、東京藝大を受験するも合格に到らず、ギターをつまびくようになるとデュオグループ「グレープ」を結成、「精霊流し」のヒットを生む。シンガーソングライターとして多数のヒットも飛ばし、タレント、小説家、童話作家、映画監督などで評価が高く、マルチな才能を示してきた人である。長崎出身のため、親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントを開催、長崎県県民栄誉賞を受賞。カボス大使、十津川村(奈良)観光大使、諏訪市原田泰治美術館名誉館長、他。
さだまさしは 『やばい老人になろう』(PHP研究所)で、次のように語っている。
「もともと、誰も掘っていない畑を耕してみたくなるのは、どうしようもない僕の性分だ。
負けず嫌いのお調子者のことを、長崎弁で「のぼせもん」という。
遊びでも祭りでも、やたら仕切りたがるおじさんのことを、古い言い方で「おっちゃま」と呼ぶ。
僕はまさに「のぼせもんのおっちゃま」なのである。
「できることなら、陽気で元気で一徹な「じじぃ」をめざしたい。
友人とワイワイ仕事をし、めいっぱい遊んで呑んで、若い仲間を巻き込みながら、友情の大きな輪を広げていく。そもそも、日本の年寄とは、そういう存在だった
2017年4月10日、僕は65歳になった。
ほとんどの人は、死を恐れ、老いることを恐れるものだ。
だが僕はむしろ、死を素直に受け入れ、どのように老いていくかを真面目に考えつづけてきた。
僕は、いったいどんな「じじぃ」として、生きるべきなのか。
そう暗中模索しているうちに、ふと、周りから「ヘンなじじぃ」と呼ばれたいと思うようになった。
「フツー」ではなく、あくまでも「ヘン」がいい。
自分の子供を育てるときに心掛けてきたのも「フツーはダメ」ということだった。
子供がちょっと変わったことをしたときも「すごい!ヘンでいい」と褒めてやった。
「良いヘン」と「ダメなヘン」があることは教えたが、「フツーはダメ」ということだけは徹底してきた。
だから、自分もまた老人として「ヘンなじじぃ」であり「やばい老人」でありたいと思うのだ。
老いを恐れる人は、たぶん人生と真剣に向き合って生きてこなかった人だ。
だから歳を取ると、後悔や不安でいっぱいになる。
だが、これまで一瞬一瞬を精一杯に生き、一所懸命に努力をしてきた人にとっては、老いることは怖いことでも悲しいことでもないはずだ。
そもそも「じじぃ」には、選ばれた人しかなれないものだ。
僕の同級生でも音楽仲間でも、「こいつがじじぃになるのが楽しみだな」と思うような奴が、思いがけなくガンで早く死んだりしている。そう思うと「じじぃ」になるのは、ありがたいことなのだ。
僕が憧れる「じじぃ」、それも「やばい老人」の条件は三つある。
その一 「知識が豊富」
その二 「どんな痛みも共有してくれる」
その三 「何かひとつでもスゴイものを持っている」
僕の周りには、幸せなことに、そんな「じじぃ」や「ばばぁ」がたくさんいる。
彼らに追いつき追い越すためには、まだまだ僕自身の経験値も実績も足りない。
どうしたら「ヘン」で「やばい」と言われる「じじぃ」になれるか。
毎日が挑戦の日々である。
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江戸においての老人の評価基準は三つあったという(江戸の「粋」・夢新書より)。
一、「どれだけ若者を笑わせたか」
二、「若者を引き立てたか」
三、「良きものを伝承したか」
これは、現代でも使える。さだまさしのような多彩な興味をモノにしていける 「ヘンな老人」、「やばい老人」を目指すのは、高齢化社会の愉快な発展的方向性なのではないかしらん。
2017年09月13日
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