国連会議で核兵器禁止条約が採択されたにもかかわらず、唯一の被爆国である日本および核保有国である米英仏各国は今年7月7日、条約に加盟しないと発表して、平和を望む世界中の動静に水を差した形となった。日本の別所浩郎国連大使は記者団の取材に、日本がこれまで核兵器の非人間性や安全保障情勢の双方を踏まえ、核兵器国と非核兵器国の協力の下での核廃絶を目指してきたと説明、その上で、「残念ながら条約交渉はそういう姿で行われたものではない」と語った。ただ、核兵器国と非核兵器国との信頼構築に向けて今後も尽力していく考えも示した。当然ながら、広島・長崎の被爆者からは日本の条約不参加への不満が聞かれた。
米英仏3カ国も共同声明で「国際的な安全保障環境の現実を無視している」とし、条約に署名・批准・加盟することはないと表明した。米英仏の声明は「条約は北朝鮮の重大な脅威に対する解決策を提供せず、核抑止力を必要とする他の安全保障上の課題にも対処していない」と批判した。
北朝鮮が続ける核ミサイル・核実験には、パキスタン人研究者A・Q・カーン博士という人物が関係していると言われてきた。ところが、この博士の要請を受けて、過去に日本企業も核実験の部品にもなるパーツを輸出していたとも暴露された。
カーン博士は、パキスタンに核兵器をもたらすと同時に「核の闇市場」を構築にも関わっており、その経緯についても話していた。博士によると、パキスタンの最大の友好国である中華人民共和国、そして日本との関係については、1977年に訪日した際に、核兵器原料の高濃縮ウランを製造する濃縮施設向けの電力供給装置を購入したとも語り、84年には、「いくつか重要な部品を注文した」と共同通信に対して証言、核製造に必要な部品を日本企業から入手していたことを告白した。そのようにしてパキスタンは85年までに高濃縮ウランなどの製造に成功、核実験ができる状態になった。核開発技術確立の最終段階で、日本企業が支援していた疑いが出てきた。
博士の証言によると、77年の訪日時に、過去に米国や欧州の企業から販売を断られた「UPS(無停電電源装置)」を日本企業から調達できた。停電時に8メガワットの出力を誇るUPSは、切れ目なく一定の電力供給を受ける必要がある濃縮施設向けだった。博士はこの企業から、原子力施設で稼働中のUPSの見学にも誘われたと指摘し「(企業側はパキスタンが)核開発に使うことに気付いていたと思う」と日本企業がまるで核保有支援のをしたように示唆するような発言をしている。さらに、84年には「複数の(日本の)大企業」を訪問し、核開発に必要な部品を入手。うち1社の担当者は、第2次大戦中にドイツに駐在していた元海軍武官で、ドイツ語を流ちょうに話したという。また、核開発の原材料の一つである特殊磁石など核開発に必要な資機材が複数の日本企業から大量に輸出されていたことを証言していた。取引に携わった日本側関係者も、80年代に少なくとも6000個もの特殊磁石を輸出したと明らかにした。日本の一流メーカーが、パキスタンの核開発に結果的に協力し、資機材供給体制に組み込まれていた実態が判明しており、特殊磁石は「リングマグネット」と呼ばれ、原爆原料の高濃縮ウランを生産する遠心分離機の回転部分を支える部品として使われる。核関連研究に使用可能な電子顕微鏡も他のトップメーカーが輸出しており、博士は「日本は非常に重要な輸入元だった」と強調した。
会川 晴之『独裁者に原爆を売る男たち―核の世界地図』(文藝春秋,2013)のP.84に書かれている「核の闇市場」の地図だ。これを見ると闇市場の顧客となった国(イラン、リビア、北朝鮮)と闇市場に機器を供給していた国(アメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、トルコ、日本、韓国、中国、台湾、マレーシア、シンガポール、南アフリカ)が一目瞭然だ。
上記のP.92では、「『核の闇市場』の登場人物」の関係図が掲載、それを見ると誰がどのような役割を果たしていたかが分かる。ここに出てくるのは博士を除くと8人。1人目はパキスタンのアリ・ブット元首相。パキスタンの原爆の「政治的父」であり、博士に核兵器開発を委ねた人である。2人目はニヤジというアリ・ブット元首相の側近でリビアとの取引を仲介した人。3人目はムシャラフパキスタン元大統領。 彼は博士を冷遇した。少し、飛ばして、6人目はスイスのティナー一家のフレッド。彼は技術者であった。7人目は同じくティナー一家の長男であるウルス。 彼は「核の闇市場」の技師長であり、彼が中心となって分離機の設計図などを作成していた。8人目は同じくティナー 一家の次男であるマルコ。 彼は一家のマネジメントを担当していた。「核の闇市場」はティナー一家の裏切りにより、情報がCIAに漏れただけでなく、スイスで一家は逮捕され、裁判にかけられる。その中で押収された資料からは衝撃的なことが明らかになって行く。 博士の絶頂期とその後の転落期は「核の闇市場」と相関関係にある。そして、皮肉にも博士がインドに対抗するために開発した分離機が「核の闇市場」を通じてインドに渡ったのだ。
ムシャラフ・パキスタン元大統領によって、博士は自宅軟禁状態に置かれていた。そうした制裁のため、博士を中心とした「核の闇市場」は崩壊したが、他にも核開発情報を扱っている業者は存在している。つまり、今後も核兵器は世界拡散していく可能性を秘めている。
2011年、東日本大震災のあと、博士はNewsweek誌に自身のかかわってきた核開発のもくろみを語っていた。http://kaizublog.seesaa.net/article/453290574.html
では、そのカーン博士とはどんな人物なのか、ネット検索で分かる範囲をさぐってみた。
カーン博士はインドで生まれるが、第二次世界大戦後の当時、インドはイギリスからの独立を果たすが、その際に国は宗教によって2つに別れてた。1つはヒンズー教徒によって建国されたインドだ。そしてもう1つはイスラム教徒によって建国されたパキスタンだった。この2か国は歴史的に、今もって非常に緊張関係にある。
独立当時、11歳だったA・Q・カーンはインドからパキスタンに民族大移動をする際に、インド人によって虐殺されたパキスタン人の知らせを聞いた。そして「いつか、この屈辱を晴らしたい」と思って成長した。
彼はカラチの大学で冶金学を学び、勉強を続けるためにヨーロッパに渡る。その間に、東西を分ける壁が出来た直後に西ドイツのベルリンに渡り、2年後には結婚する。この結婚が彼の人生の大きなターニングポイントになった。相手は南アフリカ出身のオランダ系女性だった。これが縁で妻の両親が住むオランダ中部の町デルフトにある工科大学に進学した。ここで修士号を得た後、ベルギーのルーヴァンにあるカトリック大学に進学、博士号を取得する。
そして、1972年5月、博士が36歳のときにオランダ・アムステルダムの物理力学研究所(FDO)で技師として働き始める。FODはオランダがイギリス、ドイツと共にウラン濃縮用に設立した「URENCO(ウレンコ)」社傘下にある研究所だ。「URENCO(ウレンコ)」は原子力発電所に使う核燃料を製造するため、濃縮を手掛ける企業であり、つまり濃縮技術は核兵器開発にも転用できる。 極めて高度な機密情報を扱うため、本来であれば3代前までに英独蘭3か国の国籍を持っている人でなければ就職できない規定があった。もちろんパキスタン国籍の博士は就職が出来ない「はず」だったが、なぜか就職できてしまった。
博士がFDOに入社する前年の1971年12月にインドの後押しを受けて東パキスタン(現・バングラディシュ)が分離独立する。当時、パキスタンはアメリカの主導する反共軍事同盟の中央条約機構(CENTO)、東南アジア条約機構(SEATO)に所属するも同盟国からの支援はなく、国際的にも孤立感を深める。ところが、1974年にインドが核実験を行う。このような祖国を取り巻く国家存亡の危機的状況下で博士は世界最新鋭のウラン濃縮技術をパキスタンに持ち帰るべく「諜報活動」を始める。そこで、様々な情報を確保し、祖国に帰国し、分離機製造を手掛け、分離機の製造に成功。これをパキスタンの頭文字を取って「P-1」型分離機と名付けた。
分離機を開発したことは驚異的なことだった。
現在でも「URENCO(ウレンコ)」とロシア以外、効率良い分離機を製造できないものだ。アメリカ、フランス、日本も「URENCO(ウレンコ)」の技術を使っている。ついに「P-1」型分離機を開発したことで1984年12月にパキスタンも核兵器開発を成功させる。結果、パキスタンは世界で9番目に核兵器を取得することとなった。
IAEAは「核兵器のブラックマーケット」の筋をたどっていき、アブドラ・カディール・カーン博士に行き着いた。パキスタンで「核兵器の父」と呼ばれているカーン博士が運営しているカーン研究所(Khan Research Laboratories)が、使用済み核燃料から核爆弾の材料となる高濃縮ウランを取り出す遠心分離器を開発し、それを使って自国の核兵器を作っただけでなく、リビアやイラン、北朝鮮などに輸出もしていたもともとは自国の核兵器開発のための部品調達のネットワークだったものを国際社会の闇マーケットに転換したのだ。
2017年09月04日
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