2017年06月25日

オノ・ヨーコの”Imagine”

 ビートルズで活動したジョン・レノンの楽曲「イマジン(Imagine)」を米国の音楽出版協会が、オノ・ヨーコをその共作者として公式に認めたことが今月16日明らかにした。

 「イマジン」は、ジョン・レノンが作詞作曲し、1971年に発表されたソロ楽曲。彼は生前、作詞などの面で、妻であるオノ・ヨーコさんの影響を強く受けていたことを明らかにしており、インタビューでも「(ジョン・レノン単独ではなく)実際には『レノン-オノ』とクレジットすべきだ」と語っていた。

 オノ・ヨーコは、音楽出版協会により同曲の共作者として認められたことを受け、「同協会の勇気ある行動に感謝を述べたい」とTwitter上でコメントした。

◆アルバム「イマジン」誕生の経緯

 当時の背景にベトナム戦争が、あった。ジョンとヨーコはこれに抗議して「ベッドイン」 、アルバム「イマジン」を作成した。

・ベトナム戦争が泥沼化し、若者たちは大規模な反戦運動を繰り広げる。
・1969年3月、ジョンとヨーコは平和のパフォーマンスとして「ベッド・イン」をし、ホテルで反戦歌「ギブ・ピース・ア・チャンス(平和を我らに)」をレコーディング。
・1969年12月、「WAR IS OVER!IF YOU WANT IT(君が望めば、戦争は終わる)」の広告を掲載したポスター・キャンペーンを実施。
・平和活動の一環として1971年9月、アルバム「イマジン」を発表。
◾1964年に出版したオノ・ヨーコの詩集「グレープフルーツ」の「Imagine(想像してごらん)」に触発されたと、ジョンは明言している。
◾ロンドン郊外のアスコットの自宅で作曲。レコーディング・シーンが映像に捉えられている。
◾ヨーコ曰く、「使命感のある歌を作りたいと思っていたが、こんなに大ヒット曲になるとは思わなかった」。

2001年9月11日、NY同時多発テロが勃発、テロリストに対する報復攻撃を支持する人が大勢を占める。13日目に当たる9月23日、オノは、ニューヨーク・タイムズの日曜版に"Imagine all the people living life in peace"という一面広告を掲載した。これを受けてアメリカ政府は、放送局にレノンの「イマジン」のオンエアの自粛を求めた。アメリカの大手ラジオネットワークは放送に不適な歌のリスト150曲指定に「イマジン」もその中に選ばれる。この一節は「イマジン」の歌詞である。すると、ニューヨークの街中では「イマジン」を演奏するミュージシャンが増えていく。テロを受けて、改めて市民はこの歌の意味を噛みしめている。ヨーコは更に、ニューヨーク、東京、ロンドンの繁華街の広告板に「同文」を掲げた。

1ヵ月後、ディスコ調に編曲した「イマジン」がビルボードのクラブ演奏部門で9週間連続ヒットチャート・イン。歌手は46歳のサー・アイバン。父親はアウシュビッツ強制収容所を経験。家族の歴史を踏まえ、「イマジン」の心を若い人に伝えることが自分の使命と感じたという。


 2006年、トリノオリンピック、白のパンツスーツのヨーコは、「イマジン」が歌われる前にスピーチしたのは今も印象に残る。開会式で、すくっと堂々と立っている彼女は、平和のメッセージを届けにきたのだった。

メモを片手に、オノ・ヨーコはマイクに向かってこう言った、

「平和を実現するのは、むつかしいことではありません」
「世界中のすべてのひとが、ひとりひとり(each one of us )、平和を想像すれば(imagine)すれば、それはかならず実現できるのです。

「平和を広げよう(Spread the peace)」
「1人1人が変える力を持っている(Each on of us has the power to change the world)」」

私の夫、ジョン・レノンはいいました。『we will live in peace as one』」

そして、荘厳な響きとともに、太い声でピーター・ガブリエルが「イマジン」を歌いだした。すると 彼の歌にあわせて、オリンピックの選手たちが、会場の観客たちも「イマジン」を歌っていた。
「イマジン」を歌えば、本当に平和がおとづれるのか。いや、ヨーコが平和のメッセージを伝え、ピーター・ガブリエルが「イマジン」を歌い、世界中が声を合わせる、その祈りに意味がある。


 2012年にビートルズのメンバーだったポール・マッカートニーは、インタビューで、ビートルズのレコーディング・セッションにオノが同席することについては居心地の悪い思いをしたと認めつつも、ビートルズが解散した理由は、ジョージ・ハリソンやリンゴ・スターを含め、メンバーそれぞれの違った事情によるものだとも続け、「イマジン」や「ディア・プルーデンス」などジョンの名曲は、彼女の存在なしには創作されなかっただろうとも語っている。

「ヨーコなしにはジョンはこういった名曲を創り上げることはできなかったと思うよ。だから彼女を責める理由なんて全くない。ヨーコという存在が現れたとき、彼女のアバンギャルドな側面や物事に対する独特な観点といった魅力が輝いていて、それがジョンに全く別の道筋を照らしたんだよ。ジョンにとってはとっても魅力的な道だったんだ。だからジョンが離れていくのは必然だったんだ。どちらにせよ、彼は離れていったはずだよ」

ただポールは、ビートルズの初代マネージャーを務めたブライアン・エプスタインが1967年に死去した後に、同バンドのマネージャーを引き継ごうと割って入った実業家のアレン・クラインに対しては未だに憤りを感じていて、アレンの存在がビートルズ内に亀裂を生んだとも語っている。「僕の生涯の親友たちでもあるメンバー3人と共に僕は戦っていたんだ。クラインに戦いを挑みたかったんだよ」と話していた。

オノ・ヨーコのコンサートというを東京で聞きにいったことがあった。小野家の軽井沢の別荘を探索し、万平ホテルにも泊まったことがある、ヨーコ・フリークと言えない事もないが、彼女のアーティストとしての言動には注目してきた。

 日本生まれのアメリカのアーティストとしてクレジットされるオノ・ヨーコ氏は、天皇陛下と学習院で同学年だったというのも、一つの歴史だ。
Hiroshima Sky is Always Blueという曲が1995年8月6日に発表された。

この曲をヨーコとポールの家族も混じってレコーディングした秘蔵CD(未発売)!!があって、この日のNHK「おはよう日本」のニュースでほんの2分半ほど放送されたことがあった。それは原爆(被爆)50周年の日だったわけです。1995年10月7日には、広島の宮島・厳島神社で開催された「オノ・ヨーコ・今・祈願コンサート」で ヨーコはこの曲をライヴ演奏していた。

ところが、この音源が広島でこっそりリリースされていた。 現代美術を通じで被爆地ヒロシマの心をアピールしたり平和に貢献したアーティストを顕彰する「ヒロシマ賞」(2011)で、その第8回目の受賞者にヨーコが選ばれて、ご本人出席のもと授賞式(7月29日)が広島であった、ので、これを記念して
「広島市現代美術館」でインスタレーションを中心とする
ヨーコの記念展「希望の路 YOKO ONO 2011」(7月30日〜10月16日)が開催。

で、その展覧会のカタログに、なんとオマケとして、上記CDが付いたわけでした。
オノ・ヨーコ研究には大変貴重な資料だと言える

出典:http://blog.goo.ne.jp/softpower/e/15f98e477e1550ad9ebb74959fb54e3a

posted by Nina at 00:00| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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