新・仏大統領マクロン氏の子供時代には、学校帰りや週末に入り浸っていたのが、母方の祖母ジャーメインさんのアパートだ。ジャーメインさんの母は清掃人として働き、読み書きができなかった。その姿を見て育ったジャーメインさんは教育の必要性を身にしみて感じるようになった。自身は地元の学校の校長にまでなり、孫のマクロン氏にも何とか自分が学んだことを伝えようとしたようだ。
マクロン少年が来るとクラシック音楽を流し、声を出して本を読ませた。マクロン氏は「ホットチョコレートを飲みながら、ショパンの音楽をよく聞いたよ」と当時を振り返っている。
祖母を通じて古典文学や音楽に親しんだマクロン氏。当時の同級生はマクロン氏が教室の中で自作の詩を読み上げたことを覚えているという。
しかし、祖母はマクロン氏に単に文学や音楽に親しむことを教えただけではなかった。マクロン氏の自伝を書いたフランソワ=ザビエ・ブルマー氏によると、祖母は社会をより良い方向に変えるべきだとの信念の持ち主で、マクロン氏が後に政治の大切さに目覚める種をまいたという。
文学好きの少年に育ったマクロン氏はカトリック系私立校に進学する。ここで「運命の出会い」が待っていた。成績はトップクラス、ピアノが弾けて学校劇では俳優として活躍するマクロン氏が、フランス語とラテン語を教える女性教師で演劇部の担当をしていたブリジット・トロニューさんと出会ったのである。
後にブリジットさんはこう語っている。「とても頭が良くて、ほかの誰からも聞いたことがないような考え方をしていると思った」 マクロン氏にとっても、ブリジットさんは強い印象を残したようだ。チョコレート会社を経営する裕福な家庭で育ったブリジットさんは40歳近くで、銀行家の夫の間に子供が3人いた。そのうちの1人はマクロン氏の同級生だった。つまり、母のような年齢の年の差があった。
しかし、2人の共通する趣味である文学が距離を縮める役割をした、劇の台本を書き直しているうちに、いつしか恋愛感情が芽生えた。当時、マクロン氏は10代半ば、当然2人は自分たちの気持ちは周囲に秘密にしていた。友達と旅行に出かけると言って、ブリジットさんと一緒にいたことがわかり、2人の関係が知られてしまった。父は「椅子から転げ落ちるほど、驚いた」という(アン・フルダ氏によるマクロン氏の伝記『Emmanuel Macron: Un Jeune Homme Si Parfait(エマニュエル・マクロン、完全な若い男性)』による)。
両親はブリジットさんに会い、「息子が18歳になるまで会わないように」と頼み込んだ。マクロン氏は高校生活の最後をパリの名門中の名門アンリ4世高校で送った。アミアンはパリから120キロ離れているが、伝記によると、両親がマクロン氏をパリに送ったのは2人の仲を裂くためではなかったという。
しかし、17歳になったマクロン氏はブリジットさんに「何があっても、結婚する」と宣言していた。2007年、マクロン氏が30歳になる直前、ブリジットさんが54歳の時に、2人はようやく結婚にこぎつけた。現在、2人は公私ともに良きパートナーとなっている。選挙期間中に声の調子など演説の仕方について助言をしていたのもブリジットさんだ。
大統領選で当選が決まり、ルーブル美術館前の広場で勝利演説を行ったマクロン氏が、演説の終わりに舞台上にブリジットさんを呼ぶと、聴衆の間から喝采が沸き起こった。このカップルがフランスでは多くの人に受け入れられていることを示した瞬間だ。
知り合って20年以上、結婚への障壁を乗り越えて、周囲の理解を取り付け、結婚して10年、円満に家庭生活を営む。2人の間には子供がいないが、ブリジットさんには前の結婚で3人の子供がおり、更に7人の孫まで、しかもマクロン氏は良好な関係を保っているということのようだ。フランスのファーストレディーは公職ではないが、マクロン氏は新政権でブリジットさんに何らかの公務についてもらう可能性を示唆している。
若き政治家から大統領の地位に上りつめた今も、マクロン氏はことあるごとに「ブリジットのおかげだ」と繰り返している。良くも悪くも、非常に頭が切れる「エリート」で「ブルジョワ」であるという背景だ。その交渉力、説得力、ネットワーク作りに尋常でないほど長けている。元経済相とは言え、世間的にはほぼ無名だった人物が、昨年4月に立ち上げた政治運動を1年でここまで拡大させた力量は空前絶後、ナポレオンのごとくではないか。マクロン氏の同級生だった人物がテレビ局「フランス24」の取材の中で、「ブリジットさんとの結婚に大反対の周囲を若い彼自身が説得して、結婚にまでこぎつけた。この交渉力、説得力は政治の場でも発揮されると思う」(8日放送)と述べている。
最後に、「彼は幸運に恵まれた人物」ともいえる。
現職のオランド大統領が立候補しなかったこと、オランドは彼の雇用主ともいう関係で採用されて、オランド自身も立候補への意欲はあった、メンツもあったが、結果的には譲った。右派の最有力候補とされたフランソワ・フィヨン元首相が家族の不正報酬疑惑に悩まされ、地盤沈下したこと。決選投票の相手が国民戦線のルペン氏で「極右勢力だけには政権を取ってほしくない」という意識が有権者の間で働いたことなど、マクロン氏は何重もの幸運に恵まれたという見方である。加えて、有権者の間には先述のように、既成政党に対する失望感があったことも、既成政党と距離を置いたマクロン氏にプラスに働いた。排他的なメッセージを出すルペン候補よりも、新たな、前向きのメッセージを出したマクロン氏が好まれ、若くてハンサム、女性を大切にする(フランスでは若者が正式に結婚するより、同棲で終わる事実婚が多いのにである)、裏切らない誠実さを目の当たりに見せるから、マクロン氏は誠意ある「新しい口説き上手なフランス」の男性というイメージを作り出した。老獪な政治家、女性との浮名だけというのではない清廉、高潔な期待のプリンスだ。
実動部隊としても「前進」はボランティアを大量に動員して30万戸の家庭を訪問させ、約2万5000人の有権者にそれぞれ15分以上の対面インタビューを実行した。国民が何を不満に思い、何を優先したいのかを探り、その結果をデータベース化して選挙運動に使った。つまり、「戦略的に国民の声に耳を傾けた」のである。
草の根運動、あるいはスタートアップともいえる「前進」をマクロン氏はどこまで大きくできるだろうか。前向きに難問に取り組んできた夫婦の二人三脚は、誰よりも結束が固いことが、二人の手に手を取って歩く姿に象徴され、その信頼関係が変わらないこと、そしてさらに前進していくように国民が見守っているということのようだ。今のフランスは女性の知性に支えられて、それにこたえる政治をするマクロンがEUのリーダーともなりそうだ。離脱後に国民投票と手間暇かかる孤島に入り込んでしまった英国より、一手も二手も先を目指していきそうな気配だ。
参照:デイリー読売
パリ大学を卒業、2008年、知人の紹介で投資銀行ロスチャイルドに入行し、企業合併を担当した。合併を成功に導く手際があまりに鮮やかだったため、「金融のモーツァルト」という呼び名が付いたほどだ。3年間の勤務で約300万ユーロ(約3億7200万円)の報酬を受け取ったが、これが後々、対抗する政治勢力に「裕福な銀行家」と攻撃される材料を与えることになった。
.
ロスチャイルドでの敏腕ぶりがオランド大統領の耳にも届いたのか、2012年、マクロン氏は大統領府の副事務総長(12〜14年)となる。しかし、オランド大統領の市場改革への意欲が思ったほど強くないと判断したマクロン氏は辞任し、コンサルタント業を始めた。ところが、2、3か月後、また大統領府からお呼びがかかる。今度は経済相の職(14〜16年)だった。
停滞するフランス経済を活性化させるため、商店の日曜営業を規制する法令の緩和を含む包括法案が国民議会(下院)に提出された。法案は最終的には採択され、「マクロン法」と呼ばれるようになるが、マクロン氏は十分な議論がなされなかったことに大きな失望感を抱いた。
2015年11月、フランスでは過激派組織「イスラム国」の戦闘員らによる同時多発テロが発生し、130人以上が亡くなった。オランド大統領は厳格なテロ防止策を取ることを表明したが、マクロン氏はなぜテロが発生したのかを探るべきだと発言し、政権内で孤立した。
「左派でも右派でもない」政治を実現するため、マクロン氏が政治運動「前進」を発足させたのは翌年4月である。8月末には経済相を辞任し、11月、大統領選出馬を表明した。この時、38歳である。30代半ばで大臣職にまで昇進しながらも、既存の政治勢力では思ったほど十分な改革ができないと感じたことが、独自の政治運動の開始につながった。
4月23日に行われた大統領選の第1回投票では、有力候補4人の中で飛び抜けて支持を集めた人はおらず、マクロン氏と極右・国民戦線のマリーヌ・ルペン氏が決選投票に進んだ。既存政党には期待できないと感じている有権者の声を敏感に読み取り、自身の政治運動を作り上げたマクロン氏は、時代を読む嗅覚が優れていたとも言える。
2017年05月12日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック