禅宗には、主に二つの流れがあるのだそうで、それが臨済宗と曹洞宗だと連れて行ってくれた方から、教えて頂いた。40分ほどの座禅の指導で空の境地に近づこうとするが、なかなかそれが難しい。上空を下総基地に行きかう飛行機の音に気が惑う。そうこうするうちに、ふくいくたる抹茶の香りが鼻に入ってきた。なんとご住職が参加者にお茶をたてて下さる、新緑を眺めながら有難く飲み干す。般若心経とは、世界中のあらゆる宗派のあらゆるお経に書かれている仏典の神髄だとも初めて知った。というわけで、ご住職と一緒に参加者も読経。座禅の会終了、気兼ねなくご参加下さいとのお声にほっとする。ご住職は、連続してこられなくても、気兼ねなく参加して下さいと言われた。時々でもこうした時間を取ることはとても大事だと思った。
そこで、禅について少し、紐解いてみた。
坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは中国の唐代末期からであり、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であった。そこで宗派として、その起源を求める声が高まり、さかのぼって初祖とされたのが達磨である。歴史上の達磨による直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅である(WIKIPEDIA)。
中国禅は唐から宋にかけて発展、征服王朝である元においても勢力は健在だったが、明の時代に入ると衰退していった。日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することに始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元日本達磨宗の僧侶であった。中国から日本に伝わる禅の宗派に25の流れがある。
日本に純粋な禅宗が伝えられたのは鎌倉時代の初めごろであり、室町時代に幕府の庇護の下で発展した。鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになったのに加え、五山文学や水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。
明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が世界に伝えられた。1963年にノーベル平和賞の候補に挙がった。大拙と柳宗悦が学習院の頃の英語教師としての出会いから始まり、終生の師弟関係があった。大拙は、柳を後継にとの期待したほどで、柳が先に亡くなった時に非常に落胆した。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。
良いことがあったときや、逆に悪いことがあったときにも、それは、その人の人間性や器が試されているとき。 偉そうになってしまったり、威張ったり、逆に、ガックリと落ち込んでしまったり、不機嫌になったり、まわりに当たったり。 「何か事があっても、それに囚われることなく、すぐに捨て、淡々と次に向かっていくこと」、凛とした生き方を教えるのが禅かもしれない、もっと知っててみたい。
臨済宗相国寺派管長、有馬頼底 『人生は引き算で豊かになる』文響社
どんな人でも、何か良いことが起こると嬉しいでしょうし、良い物を手にすれば当然喜びます。
ところが、禅の世界には「好事不如無(こうずもなきにしかず)」『碧巌録』と言う言葉があり、「どんなに良いことでも、無いに越したことはない」と教えています。
「良いことが、無いに越したことはない」とは、いったいどういう教えでしょうか。
「良い出来事なら起こった方がいいに決まっている」と感じる人も多いでしょう。
ごく簡単に言うならば、良いことが起こったとしても、それに囚われ、執着してまえば、それはすでに「良いこと」ではなくなる。初めから起こらないほうがいい、というのがこの言葉の教えです。
わかりやすい例を一つ挙げてみましょう。
宝くじが当たるというのは、それそのものは好事と言っていいでしょう。
思いがけず大金が入ってくるのですから、誰もが喜ぶ出来事です。
ところが、 宝くじの当選によって人生が狂ってしまう人もいます。そして、「あんなもの、当たらなければよかった」と思うものです。 好事が起こったときというのは、じつはその人の人間性が試される瞬間でもあるということ。もちろん、それは「宝くじが当たる」という、やや現実離れした話に限りません。
たとえば、あなたの仕事が認められ、出世することができたとします。
仕事が認められることも、出世することも、悪いことではありません。
紛れもなく好事でしょう。
しかし、出世したことで、急に「自分が偉くなった」と勘違いをして、周囲の人間に横柄な態度をとるようになったり、謙虚に努力する心を忘れてしまったら、せっかくの好事も台無しです。さらに、自らの名誉欲がちょっと満たされることで、よりいっそう強欲になって「もっと出世したい」「もっと認められたり」「もっと、スゴイと言わせたい」という思いばかりが先行する人もたくさんいます。地道に努力を続けず、目立つことを好むとどうなるか、そんな「好事」によって評判を落としたり、周囲からの信頼を失った人がたくさんいるのではないでしょうか。つまり、好事というのは、人生の落とし穴でもあるのです。
大事なのは、何か一つ好事があったら、それに囚われることなく、すぐに捨て、淡々と次に向かっていくことです。 『碧巌録』には「手に白玉の鞭を把(と)って驪珠(りしゅ)、 尽(ことごと)く撃砕(げきさい)す」という言葉があります。いかにすばらしものであっても、それを握りしめ、執着してはいけない。
たとえそれが宝石であっても、と厳しく教えているのです。
よく「過去の栄光にすがる」という表現をしますが、それは自らの執着心に囚われて、いつまでも小さな宝石を握り続けている状態です。偉業であれ、評価であれ、名誉であれ、金銭であれ、何か好事が起こったら、それを自ら打ち砕き、次へ進む意識を持つことが大事なのです。
本当にすばらしい功績を挙げる人というのは、決して過去の栄光にすがることなどありません。一つの偉業を成し遂げたとしても、まるで何事もなかったかのように、翌日からはまた淡々と自らの使命に取り組むものです。