2017年04月13日

没後70年記念展示「血脇守之助 〜我孫子が生んだ歯科医学の功労者」

現在の我孫子第一小学校にも通って人物で、後に日本の歯科医学界を牽引し、また野口英世の強力な後援者であった人がいる。血脇守之助没後70年の機会に、我孫子では血脇の功績を紹介します。

杉村楚人勧記念館にて 標記の記念展示を 下記の日程で行います
2017年3月7日(火曜日)から5月14日(日曜日)まで

血脇守之助は我孫子生れ、旅籠・かど屋(加藤家)の長男として生まれた。俊才の誉れ高く、18歳で白井村の相続者となることに決まり、養子になる。

新聞社に努めるうちに英字新聞の記事に目をとめ、歯科医の重要性に気づく。志を得て、医師試験に挑戦、免許を得ると巡回医療などを経て、会津で野口(当時の名は清作)に出会った。上京したら立ち寄るようにと声をかけると、その言葉を頼りに上京後は血脇のいる高山歯科学院にやってきた。医院長には反対されるが、自分の給料から、野口の寝食、仕事の面倒をみた。野口の天才ぶりに目を見張り、それからも結納金を使い込むなど破天荒に呆れることはありながらも、勉学、ついには留学・渡航の費用、あらゆる尻拭いの工面も助けた。借財をしてでも、多額の援助を拒まなかった血脇の助力は知られてしかるべきだ。そこで、ようやくアビスタ脇に建立された東京歯科医学専門学校の後輩が寄贈したという「血脇守之助先生を讃える巨大な碑」の理由に合点した。

血脇の生家は角松旅館のあたりで、かど屋が大光寺前あたりにあったというのであるから、旅館としての仕事柄つながりがあったのではないだろうか。角松旅館は、その以前は、松島楼と言われた頃に明治天皇の御座所になった来歴のある旅籠であったので、後に廃業しても角松という割烹旅館に継承されたのだという。角松に位置的には近いため、別荘の先駆者・嘉納治五郎も我孫子滞在時に利用し、「従善如流」の書額が残されているそう。謂れを伺うことも期待できるので、お食い初めの祝い事をと食事会をすることにした。何か、ご報告出来る事があれば、乞うご期待。

駅から近くて、風情のある割烹旅館が我孫子にあることをPRして、皆さまも、お知り合いの外国人のお友達の観光にもご案内ください。 




野口が渡米した直後の1901年に、「ロックフェラー医学研究センター」が開設された。ハーバード大学、イェール大学に比す名門医学大学であるロックフェラー大学の前身であり、ノーベル賞を得た大隅良典教授もこの大学の研究者だった。ニューヨークのマンハッタン島のアッパー・イースト・サイド地区ヨーク・アベニューの63丁目から68丁目の間、国連本部の裏側に位置している。設立時に、英世が第一期特別研究員として勤め始めた所だった。それから英世が亡くなるまでの15年の間、英世は大学の業績を一身に背負い、文字通り大学の顔と呼ばれる医学者であり続けた。つまりは、ロックフェラー大学の基礎を作るのに、野口博士が貢献し、紐解けば、多少とも我孫子とも繋がっていた!

野口英世の渡米は、1900年12月5日に始まる。北里柴三郎博士の紹介状を手になんとかフレクスナー教授のもとに辿りつき、ペンシルベニア大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられた。フレクスナーの上司サイラス・ミッチェル博士は同大学の理事であった。ミッチェル博士の毒蛇の研究は、もともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいたが、彼は野口の作成した論文を読んで、「私と父が親子二代にわたって取り組んできた長年の研究が、一人の日本人青年の協力によってようやく完成を迎えた」と賞賛し、研究の成果はミッチェル・フレクスナー・野口の連名で正式に学会で発表された。野口はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなる。

1901年(明治34年)にロックフェラー医学研究所が設立で、フレックスナーが組織構成を任されることになりNYに移る。その間、フレックスナーの指示で、欧州留学後、アメリカに戻り、フレックスナーが初代所長となる。野口は1904年(明治37年)10月 - ロックフェラー医学研究所に移籍、正規の研究員として認め、躍進する。

1911年(明治44年)8月 - 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。世界の医学界に名を知られることとなる(現代では純粋培養の成功は ほぼ否定されている)ノーベル医学賞の候補となること、三度。血脇の助力で、京大、東大から医学博士学位を授与される。

当時、ロックフェラーは世の中が石油の独占反対に傾き、独占禁止法がアメリカで制定されて、もっとも槍玉にあげられた。その矛先を交わすために、慈善事業や教育機関の設立を行い、社会福祉活動を始めた。その一つがロックフェラー研究所で、ロックフェラー・ジュニアが最も力を入れた社会事業だった。

そこで、野口はロックフェラー財閥の威信をかけても、絶対的な成果を求められる重要な立場にいたということだ。設立まもないロックフェラー医学研究所は、野口英世の双肩にかかっていたと言っても過言ではない。野口は、ロックフェラーの威光を一身に背負った研究者となっていて、ロックフェラー直々に、またニューヨーク市長直々に研究を依頼されることもあった。その給料は、当時の日本の総理大臣の俸給が1200円よりも多かったという。

最後の調査の地・ガーナで死去も、細菌の増殖を防止するため、直ぐに火葬すべきだが、棺桶を密封するよう金属に詰めてハンダ付けし、遺体はニューヨークへ送り届けられた。病原菌に冒された遺体をアメリカに戻すとは、異例中の大異例で、奉職中になくなった野口博士にロックフェラー家として最大の敬意を表したものだった。アメリカに病原菌を持ち込まないようにすることが目的で、黄熱病の研究に莫大な資金を投じて行っていたにもかかわらず、野口の遺体はロックフェラー医学研究所に2日間安置され、盛大な葬儀が行われた。日の丸と星条旗が掲げられ、ロックフェラージュニアが野口に直々に弔辞を読んで、深い敬意を表した。棺は、そのまま墓地に運ばれ埋葬された。ウッドローン墓地の用地も特別な計らいで、研究所が野口英世のために購入した。墓碑は巨大なおにぎりのような形なのですぐわかる。

博士は、実は毀誉褒貶の多い人物であって、酒好き放蕩好きな浪費家だった。勉学や留学の為にと集めてもらった大金や結納金だと渡されたお金すらも、使い込んで、周囲に度々迷惑を及ぼしていた。これまで、野口英世博士については、持ち前の努力、忍耐力、集中力で、必ずやり遂げる人、細菌を次々に見つけ医学的な貢献を世界にも認められた医学者であるとの面だけを偉人伝として教えられた。血脇守之助がそうしたことは意に介さず、他言せず、大きな人であったという事だ。なるほど、我孫子生まれの人だから人がいいのか、とさえ思うのだ。

野口を天才だと見ていた。必ずやると決めたことはやり抜いた、世界でだれも出来ないと思われた細菌を見つけると決めたからにはどんなことをしてでも見つける、寝る事も惜しんで貫徹する努力家。顕微鏡では見れないほど小さな細菌だったら、大きく陪食する創意工夫を続けた。黄熱病の研究で亡くなるまでに、梅毒、小児麻痺、狂犬病などの病原菌を次々と発見し、ワクチンを製造に結びつけた。当時の野口博士は世界最高の細菌学者として名声を得ていた。ノーベル賞にも3度も候補にあがった(戦争による反日感情がなかったら、日本人初の受賞だった可能性も)。

そんな博士に米国で会った知人の医師・畑嘉聞には「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしたという。発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備が指摘されている。

現在でも評価が高い研究は、顕微鏡観察による病理学・血清学的研究である。一方で、のちに否定されたは病原性梅毒スピロヘータの純粋培養]と黄熱病の研究であるので、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになるということだ。研究分野の進展は日進月歩、まして東西が不均衡であった時代に世界で評価される東洋人は少なかったのだ。
posted by Nina at 23:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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