ある日、南嶽が瓦をごしごし磨いていました。 馬祖は「何をなさっているのですか」と訊きました。
「うん、瓦を磨いている」
「瓦を磨いてどうするおつもりですか」
「鏡にしようと思う」
これを聞いて馬祖が「瓦をいかに磨いても鏡にはならないでしょう」と問い返しました。
すると南嶽が唐突に「お前はここで何をしている」と問い返しました。
「座禅をしています」と答えると、南嶽は「座禅をして何になる」と訊いたのです。
「座禅をして仏になろうと思っています」と答えました。
すると南嶽は「瓦を磨いても鏡にならないように、座禅をしても仏にはなれまい」と言ったのです。
驚いた馬祖は「それではいったいどうしたらよいのでしょうか」と問いました。
南嶽の答えは「もし牛馬が動かなくなったら車をたたくか、牛を叩くか」というものでした。
この言葉で目が覚めた馬祖は南嶽の下で本気で修行を積み、法を継いだのです。
南嶽は馬祖の修行の繰り返しにのみ陥っていると見て、抽象的な悟りを求めてはいけないと、このような奇妙な言動で釘を刺したのでしょう。このエピソードが示しているのは、もちろん、座禅をしても仏にはなれないということではありません。 私たちの修行は、瓦を磨いて鏡にしようというような不可能なことをしているのではないということです。 最も大事なことは、本来持っている鏡を磨いて、さらにきれいにし、そのきれいな心で自分の仏心を自覚することなのです。
五百年に一度の名僧と言われた白隠禅師は、「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中でこう言っている。
「衆生(しゅじょう)本来仏なり」 我々はみんな、そのままで仏さま。
だからこそ、自分を磨いて、磨きぬいて本来の仏である自分自身を取り出さなければならない。
それが、ほめることであり、その存在を認めること。
まさに、禅語にある「明珠在掌(めいじゅたなごころにあり)」です。
宝物は、すでにあなたの手の上にある、あなた自身が持っているということです。
禅においては自分が本来仏であるという気持ちをしっかり持つべきだ、とされます。禅の修業は、仏でない者が仏になろうという修業ではなく、自分は本来仏と同じ心をもっていたと気づかせてくれるものだとされます。柳宗悦は、宗教哲学者として道を歩み始め、我孫子に住まう経緯がありました。当然ながら、学習院時代の恩師・鈴木大拙とは学問上において生涯にわたっての関係をもつのであり、大拙は天才・柳宗悦を先に失ったことを痛く嘆いたというものわかります。柳の禅への関心は深く、その影響をリーチも受けていたということです。手賀沼の眺めは、そうした禅問答に何らかの影響をもたらしたのは言うまでもありません。
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