息子は多くの病気を持って生まれたので、生まれたときからずっとNICU(新生児集中治療室)に入っていて、2歳3カ月で初めて退院しました。入院中は看護師さんが24時間みてくれていたけれど、退院後は夫婦で面倒をみることになる。その大変さは想定していなかったわけです。
退院の前年12月に第2次安倍内閣が発足して、私は自民党総務会長になっていました。看護師さんに「こんなときに母親はどうするの?」って聞いたら、「仕事を辞めてずっとおうちです」って。「あ、でも野田さんのところは無理ですね」とも。
共働きをすすめる政策が展開されるなか、母親が仕事を辞めることを前提とした仕組みになっている。うちの場合は夫が仕事をあきらめました。共働きの夫婦で障害を持った子を育てられるかどうかを確認できる社会実験だと思ってやってみたけれど、結論から言うと、できない。
――私自身、医療的ケア児の息子を育てていますが、日常的に医療的ケアをするのは肉体的にも精神的にも疲れます。
本当に大変で、夫婦の危機でしたね。当時は息子はまだ不安定で、退院後に一度、心肺停止になった経験もあって、ビクビクしながら育てていました。私は総務会長として普通の国会議員よりも忙しく働いて帰ってくるけれど、夫は一日中面倒をみているからくたくた。何度ももめて、こんなにもめるために子どもを産んだわけじゃないのに、と思いました。
――どう切り抜けたのですか。
とにかく第三者にゆだねることはできないか、シッターを雇えないかということから調べた。でも、医療的ケア児を預かるには看護師が必要だから、とても高いお金がかかる。
そんなとき、NPO法人フローレンスが障害児専門の保育園を作ろうとしていると知って、寄付者を募るなどの手伝いをして、その保育園に入ることができました。当時は東京都内に1カ所しかなくて、自宅からの送迎に時間がかかったので、いまは別の保育園に自前で看護師を雇って通わせています。費用は月に50万円かかります。
――その費用を普通の家庭でまかなうのは難しいのでは。
そこが問題なんです。看護師がいたら重度の障害がある医療的ケア児も保育園で社会生活を送ることができるんだから、配置してくれと厚生労働省に訴えているんです。私はその捨て石になるつもりでやっています。もちろんポケットマネーで、政治資金は使っていません。
――民進党の荒井聰さんらと2015年に超党派の勉強会「永田町子ども未来会議」を立ち上げました。
息子は複数の病気があって11回の手術を受けましたが、今では走ることもできます。最初は「医療的ケア児」という概念がなかったので、「走る重度心身障害児ですか?」なんて言われました。この国の医療、福祉の中に医療的ケア児が存在していないことが問題だと思い、障害者総合支援法の改正のタイミングで盛り込んだんです。
――いまの課題はなんですか。
息子は今春から小学校に入りますが、特別支援学校という障害児のための学校でも、医療的ケア児はお昼休みに栄養の注入に来てくださいと言われる。ほかの親は必死でやっていますが、国会の本会議に遅刻しないように注入にいくなんてナンセンスですよね。だから、私のような立場の人間がおかしいと指摘して、変えていかないといけない。
――障害者政策の当事者になって、政治に対する考え方は変わりましたか。
政治は本来、社会的弱者を支えるためにあると言われるけれど、それを担う政治家ってみんな頑丈なんです。医者に行くことも障害があることも、めったにない。
私も50歳で子どもを産むぐらい元気だったから、ある意味、傲慢な人生を歩んできた。だけど息子を通じて、病気や障害があるとこれができなくなる、これをさせてもらえなくなるということを当事者感覚で知ることができた。
他の母親がキャリアを犠牲にして我が子を看護していることを思えば、私は母親失格かもしれないけど、幸いなことに、私はキャリアの浅い国会議員ではないので、24年目を迎える今の実力を発揮できる。法律を作る仕事をしている人間として、私が息子のためにしてあげられたことは「医療的ケア児」を法律に明文化させたこと。日本中の人に認知してもらって、支えの輪を作ることが私の母としての贈り物だと思っているんです。(聞き手・山下剛)
出典:朝日新聞デジタル 2017/1/29
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