『帝国の慰安婦』は数千部しか売れていない。2013年8月に韓国で出版された慰安婦の実態や、旧日本軍や業者の関与などの調査研究だ。支援団体や日韓両政府による取り組みを検証し、解決策を模索しようとした。
「直接の責任はなくとも、慰安婦というシステムを生み出したのは日本による植民地支配だった。それは糾弾されるべきだ」、そのうえで朴裕河(パク・ユハ)教授(世宗大学・日本語日本文学科)は「1945年の光復(終戦)後、かつての慰安婦たちは、彼女らを売り飛ばした親と韓国人人買いへの憎しみを、きれいさっぱり消し去ってしまった。そうして彼女らは『植民地支配における悲劇の象徴』としての役割を期待されるようになった。そしてそうした役割を押しつけたのは、反日感情を煽動する一部のナショナリストグループだった」という。1年間続いた刑事裁判で、強硬な反日組織を相手にどれほど、国内を敵に回し、大学での活動を阻害されたか計り知れない。
「元慰安婦らが自発的にそうしたのか、誰かに強制されたのか、あるいは彼女らが売春を行ったのか、そうでないのかは無関係だ。私たちの社会は彼女らに無垢で純粋な少女たちでいてもらわなければならない。もしそうでなければ私たちは日本を糾弾することができなくなってしまうからだ」。
しかし、それは韓国内にとてつもなく大きな議論をまきおこした。朴教授に対する刑事裁判一審判決公判は、昨年12月に懲役3年を求刑していた。検察や裁判所が歴史的な事実を評価し、刑事罰を科すのは言論や学問の自由を脅かすという指摘が、日韓の有識者から出ていた。
慰安婦問題は長い間、議論の的となってきた。今回朴教授が出した説と、従来韓国内で信じられてきた説のいずれが正しいのかを判断するのは難しい。韓国国内で一般に認められている説によれば、20世紀初頭、日本は大勢の少女たちを韓国および他の地域から駆り集め、彼女らを日本軍兵士の慰安婦として働かせたという。
朴教授は言う。
「慰安婦を他の視点から見る気がないんです。仮にそんなことをしたら、それは日本の罪を軽くすることにつながると考えているんです」。
批評家のキム・グハンが言う。
「このケースは韓国における慰安婦問題というものの難しさを示しています」。
日本、アメリカ、韓国の学者たちは、韓国政府の処置に反対する声明を連名で出した。もちろんそれは朴教授の意見に賛成したからではなく、学問の自由を守るためである。
多くの韓国人が日本軍に協力していたのは事実だ。その一例が現在の韓国大統領パククネ氏の父親だ。彼は日本軍の将校だった。韓国のナショナリストは、韓国が100%犠牲者だったというイメージを作り出そうとしている。募集に関しては日本軍による強制ではなかったとしても、管理利用していたことは事実だ。しかし、強制があった、軍の関与があったなどの問題は政治問題化している従軍慰安婦の問題の本質では無い。戦後、朝鮮人従軍慰安婦は一夜にして朝鮮民族の裏切り者としてしまった。朝鮮人従軍慰安婦を民族の裏切り者としているのは日本人ではなくむしろ韓国人の中からだった。元慰安婦を韓国内で政治利用したりせず、韓国人が彼女たちを卑しんだりせず、まずは寛容になれる必要がある。日本では慰安婦像の増加に「嫌韓」を超えて無関心が広がってしまう、印象は悪化しています。まずは韓国人が彼女達を受け入れ、利用する事を止めることが元慰安婦を本当に救うことになると気づくべきではないか。。
朴教授が『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』を書くようになった経緯。
1)25年前、留学が終わる頃に東京に証言をしに来られた元慰安婦の方々のためにボランティアで通訳をしたことがあります。そして白いチマチョゴリを着て泣き叫ぶ元慰安婦の方の証言を聞きながら涙した経験がありました。この時から慰安婦問題はこの25年間、頭の中から消え去ったことはありませんでした。
帰国後は、慰安婦問題を巡っての支援活動のあり方に矛盾を感じ、また活動に加わる特別な機会もなかったため、長い間見守るだけでしたが、10年前に慰安婦問題に関する初めての本を書くまでに、水曜デモに参加したり、「ナヌムの家」を訪ねて慰安婦の方々と話をしたりしたこともありました。
2)その後2004年に、ナショナリズムを超えて日韓問題を議論する日韓有識者のグループを作ることになるのですが、朴教授がこのグループを作るようになった最も重要な契機も、実は慰安婦問題にありました。新しい歴史教科書採択に反対する会の代表でもあった小森陽一・東京大学教授と意気投合してこの会を作りましたが、先にこの会に参加してほしいとお願いした方が、日本を代表するフェミニスト学者の上野千鶴子教授でした。
そして翌年、同じように長年、慰安婦問題解決のために先頭に立って活動してこられた和田春樹教授と上野教授をソウルに招いてシンポジウムを開きました。この時私は、この方々の話に対するコメントを、慰安婦支援団体の韓国挺身隊問題対策協議会の事務局長だった尹美香氏にお願いしました。挺身隊問題対策協議会が、和田教授が中心となって活動していたアジア女性基金を非難してきたため、両者の接点を見いだそうとしたからです(この時の内容は『東アジア歴史認識のメタヒストリー』という本に収録されています)。しかしこの時、尹美香氏はこれまでと同じ主張を繰り返すのみで、結局接点を探すことはできませんでした。
3)朴教授はシンポジウムの少し前の秋に『和解のために−教科書・慰安婦・靖国・独島』という本を出版していました(慰安婦問題関連は第二章)。挺身隊問題対策協議会の活動の問題点や、それまで知られていなかった、世間に知られているものとは異なる元慰安婦の方々の声をより多くの人々に知ってもらい、この問題をみんなで改めて考えてみないといけないと思ってのことでした。
この本で強調したことは,「対立する問題を解決するためには、まず、その問題に関する正確な情報が必要。支援団体がマスコミと国民に出す情報が必ずしも正確でもなく一貫性がないので、まず正確に知ろう。そのあと議論し直したい」ということでした。
そして韓国社会はこの本をこれといった拒否反応なしに受け入れてくれました。いくつかのメディアに書評が載り、翌年には文化観光部が選ぶ優秀教養図書に指定されたりもしました。
4)翌年『和解のために』が日本語に翻訳されてから、日本での発言機会も多くなりました。そのたびに、慰安婦問題解決に日本がもう一度向き合うべきだと言いました。1995年に設立された日本のアジア女性基金は、2003年までにいくつかの国の元慰安婦の方々に日本の首相からの手紙を添えた「償い金」を渡し、医療福祉の支援をしてから、2007年に解散していました。その後、慰安婦問題への日本の関心が急激に冷めたように感じたためです。
例えば2010年、日韓併合100周年になった年に、その年にすべきことがいろいろ議論されましたが、日本政府はいうまでもなく韓国政府さえも慰安婦問題に言及しませんでした。そこで日本のメディアに向けてその年に「日本がすべきもっとも重要なことは慰安婦問題の解決」と朴教授は発言しました。
5)そして、翌年の2011年冬、やはり日本のメディアに慰安婦問題について論じた、日本の保守層と政府と支援団体に向けての文を連載し始めました(WEBRONZA 2011/12~2012/6)。2年後に韓国で先に出版された『帝国の慰安婦』には、この時連載した内容も韓国語に翻訳され収録されています。
つまり、『帝国の慰安婦』は、慰安婦問題に無関心だった日本に向けて、慰安婦問題を思い起こしてもらい、解決に乗り出すべきだと促すために書き始めた本です。しかし日本のみならず韓国でもこの問題を考え直すことが急務だと思い、結局先に出したのは韓国語版です。まさにそのために、当初は日韓両国で同時に出したかったのです。慰安婦問題解決のために長年尽力してきた日本の和田春樹教授が、私が起訴されたあと「日本で慰安婦問題を喚起させる機能がある」と言及された。
6)まだこの文章を連載中だった2012年春、今度は日本で、朴教授が2005年に試みたように、この問題の解決にともに関心を持っていながら方法において意見が異なる人々を呼んで接点を探ろうとするシンポジウムがありました。朴教授も和田教授と一緒に招待され、和田教授と似た立場から意見を述べました。
このシンポジウムのタイトルが「慰安婦問題解決のために」で、主催した人たちが、韓国の挺身隊問題対策協議会で活動していた人や、早くから慰安婦問題に関心を持ち、韓国挺身隊問題対策協議会の初代代表の尹貞玉教授とも親しい女性学者だったということは、その方々が、朴教授の立場が和田教授に近い、つまり慰安婦問題解決のために、それなりに苦心してきた人物と理解してくれたゆえのことだどいえます。
7)2012年春、日本が謝罪・補償の案を持ちかけたのに対して、青瓦台(大統領公邸)関係者が支援団体の反対を予想して、慰安婦の当事者はもちろん支援団体に打診さえせずに拒否したという記事を見て、朴教授はこのままだと慰安婦問題は永遠に解決できないと考えました。そこで、韓国に向けての本を書き始め、既に書いてあった日本語の文章も翻訳して収録しました。それが1年後、2013年に発刊された『帝国の慰安婦』です。
この頃は、サバティカルを迎えて東京にいましたが、この時、長年交流して来た数人の学者たちと、慰安婦問題解決のための議論を数回行いました。そして帰国直前に東京大学で、またもや接点を探るためのセミナーを開いたりしました。
告訴の直後に書いたように、『帝国の慰安婦』における私の関心は既存の「常識」を見直して、それに基づいて「異なる解決法」があるかどうか考えることでした。その悩みを共有することを通して、慰安婦問題をめぐる韓国人の関心と理解がより深まり、より多くの人々が納得できる解決策を模索し、元慰安婦の方々を一日でも早く楽にしてあげることでした。
そして、この本での具体的な提案は、単に「元慰安婦の方々の様々な証言が、慰安婦問題とその解決のための議論から排除されている。当事者を含む日韓協議体を作り、日本と話し合おう」と言うものでした。
慰安婦問題を知るようになってから、行動と執筆は全て、元慰安婦の方々のためのものでした。既存の常識への異議申し立ては、学者としての当然のことであると同時に、韓国に居ながら日本について教える日本学専門家としての義務と考えていたためでもありました。何よりも、事態を正確に知ってこそ、生産的な対話の始まりと正しい批判が可能だということが、日韓関係に関する初めての本を出した時から一貫した考えでした。『帝国の慰安婦』もまた、そうした考えから書かれた本です。
2017年01月27日
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