入門当時の師匠で、11年11月に急逝した鳴戸親方(元横綱・隆の里)にささげる優勝となった。田子ノ浦部屋の稽古(けいこ)場には、弟子たちが日ごろ鍛錬する姿を見守るように鳴戸親方の遺影が飾られている。現役時代は病気と闘い、「おしん横綱」と呼ばれたが、11年九州場所直前に死去。稀勢の里関はお別れ会の後に涙をこらえ切れず、「恩返しをします」と誓った。同場所で10勝5敗の成績を残し、場所後に大関に昇進したが、それから5年以上が経過してついに初の賜杯にたどり着いた。
中学ですでに身長180センチを超え、100キロ以上の体つき。鳴戸親方からは「将来、横綱、大関は間違いない」と大きな期待をかけられた。早朝から昼過ぎまで続くことも珍しくない猛稽古に耐えて力を蓄えた。
04年九州場所、昭和以降では貴乃花(元横綱)に次ぐ2番目の若さとなる18歳3カ月で新入幕。鳴戸親方か「稀なる勢いをつくっていってほしい」という願いを込めて現在のしこ名を授けられたが、優勝までの道のりは長かった。八角理事長(元横綱・北勝海)は「これだけ苦労した優勝は無いんじゃないか」。ともに鳴戸親方に鍛えられた西岩親方(元関脇・若の里)は「一番の要因は、他の3人の大関が先に優勝して、自分だけ優勝していない悔しさ。そのことが稀勢の里に火を付けた」と語った。
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