1941年12月8日、大阪毎日新聞(当時)が夕刊で報じた真珠湾攻撃、。「今曉(こんぎょう)、西太平洋で米英軍と開戰(かいせん)す」との破格の1面8段で伝えた縦見出しだった。神戸市北区の元毎日新聞社員、西村保彦さん(90)がこの時のことを忘れる日はない。兵庫県川西町(現川西市)生まれ。高等小学校を卒業後、大阪の夜間工業学校に通いながら新聞社で働いていた。編集作業を補助する「給仕」だった西村さんは、記事をレイアウトする整理部員がつけたその見出しに驚いた。3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の始まりだった。
しみの浮く当時の縮刷版の背表紙には「昭和16年12月」とある。「不思議です。戦後の出来事は山ほどあったのに、今の私には、この見出しをはじめ、戦争の記憶ばかり残っているのですから」。混迷の始まりを告げる大見出しに、15歳だったあの日を重ね合わせた。
「変だな」。大阪・堂島にあった本社2階の編集局で異変に気付いたのは、出社直後の午前9時ごろだった。 普段なら当直明けの社員が紫煙をくゆらす、人もまばらな時間だ。速記者たちが電話にかじりつき、束ねた半紙に鉛筆を滑らせていた。速記から書き起こされた原稿が、隣り合わせた整理部員の手元に次々と投げ込まれる。それを取り巻く記者たちは無言で、異様な緊張感を漂わせていた。
「おーい」。人だかりに見出しを書いた紙を持つ手が上がった。整理部員が考えた見出しを、製版する部署に届けるのは給仕の仕事だ。すくんだ足が反応した。紙を受け取り、走った。続々と関連ニュースが入ったため小さく差し替えたとみられるが、西村さんが最初に手にしたのは、ゆうに10段はある大見出しだった。全身を震えが貫く。「いつかは始まる」と思っていた日米の戦端は、まさに開かれていた。
「宣戰布告の大詔渙發(たいしょうかんぱつ)」「ハワイへ決死的空襲」。開戦を巡る約20本の見出しが1面を埋めた夕刊の発行後、西村さんは学校で授業を受けた。日常は戻るやに思われたが、日本は戦争一色に染まっていった。大本営は虚偽の戦果を伝え、新聞には「玉砕」の文字が載り始める。45年に入ると、本社周辺も空襲で焼けた。そして、西村さんにも出征の日が来た。
印刷を担う輪転課に異動して2年後、18歳の45年春だった。朝鮮半島へ。日米開戦の日、新聞が「いざ“興亞の敵”擊滅だ!」とあおった軍隊はみじめだった。物資不足からか実弾を渡されず、やりにする竹を山に探した。朝鮮半島南西部の木浦(モッポ)から2日間歩いた沿岸部の山で、陣地を築くため、ただ穴を掘った。45年8月、ラジオで雑音が入り交じる玉音放送を聞いた。日本は敗れた。
75年前の縮刷版を閉じ、西村さんは語った。「戦争はブラックホールのようです」
終戦から3カ月後に引き揚げ、間もなく復職した。その後は86年まで資料部などに勤めた。64年の東京五輪、70年の大阪万博など、胸躍るニュースは数多くあったように思う。だが、脳裏からはあの見出しに始まる太平洋戦争の記憶が消えない。「戦争がブラックホールのように、平和だった戦後71年間の記憶を吸い取っているとしか思えないのです」
参照:毎日新聞 12/8
2016年12月08日
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