2016年11月27日

時代と友情

このところ、韓国大統領の支持率が歴史的な最低レベルになったと報道される

そういう韓国人が日本人を追慕して1922年に建て、独立後の韓国で現存の日本人記念碑があるという。
乗松雅休は、日本各地を伝道するが、何の動機によってか、日本人の関わった朝鮮王妃・閔妃(ミンビ)虐殺事件のため反日気運うずまく半島に、その翌年の明治29年(1896)年12月33歳で朝鮮に渡る。明治32(1899)年恒子と結婚し、二男二女を生み 明治41(1908)年水原で没す 享年33歳。翌年、幼児の為にと、後添え・和子を紹介され再婚。

彼は朝鮮家屋に住み、朝鮮の服をまとい、朝鮮式の食事をし、その子息にすら日本語を教えなかったという。大正3(1914)年雅病気静養のため小田原に帰るも、大正8(1919)年の3・1独立運動の直後に朝鮮に渡り 朝鮮人信者の安否を気遣いながら、大正10(1921)年2月12日遂に永遠の眠りについた。その現地での伝道ぶりが地元の人々の心に残った。しかし彼の朝鮮伝道の期間は15年で、病をえて小田原に帰り 大正十年(1921 )に没する間には、独立運動の制圧で水原教会付近の堤岩里教会の焼き討ち事件もありながら、朝鮮の信徒が、度々小田原にまで見舞いにやってきた。日本人は外地で死んでも骨は日本へ持ち帰るのに、日本で死んで骨を朝鮮に埋めた乗松は、いかに朝鮮を愛したことかと当時の人々を驚かせ、人間として生まれて、これだけ敬慕されて死ぬのは名誉も財産も要りませぬな、と言わしめたという。

遺骨は、遺言により翌年朝鮮に運ばれた。水原の地に運んだのは乗松の長男・由信と、伝道者・宇津木勢八、そして白洋舎創立者・五十嵐健治らであった。

在主 故乗松兄姉 記念碑文
    
 生為主死為主始為人終為人其生涯忠愛己帯主使命而舎
     其一切所有夫婦同心伝福音於朝鮮数十年風霜其苦何如
     心肺疼痛皮骨凍飢手足病敗其於朝鮮犠牲極矣然動静惟
     頼主甘苦不改楽其生涯祈祷与感謝也得我多兄弟同会于
     主主名得栄其生涯苦而亦栄矣臨終口不絶朝鮮兄弟願遺
     其骨於朝鮮此所以為我等之心碑而至於主再臨之日也与


(この碑文の読み下し。藤尾正人)

生きるも主のため、死ぬるも主のため、始め人のため、終わりも人のため、その生涯忠愛、おのれ主の使命を帯びて、その一切の所有を捨て、夫婦同心福音を朝鮮に伝う、数十年の風霜、その苦しみいかにぞや、心肺疼痛し、皮骨凍飢し、手足病敗す、その朝鮮における犠牲きわまりぬ、しかるに動静ただ主に頼り、苦に甘んずるの楽しみを改めず、その生涯 は祈祷と感謝なり、わが多くの兄弟を得、会するに主を同じくす、主の名は栄を得、その生涯苦にしてまた栄なり、臨終の口に朝鮮の兄弟のことを絶たず、その骨を朝鮮に遺さんことを願う、これわれらの心碑となすゆえんにして、しこうして主の再臨の日に至るなり。

墓石の質は大変にいいもので、貧しい人々が喜んで出し合って、いかに朝鮮の兄弟の愛が深いかを示している。朝鮮式の葬列で朝鮮信徒に担がれた

「キリストの言葉に活かされ、朝鮮の人々を慰めにいき、朝鮮人になり切って死んだのです」
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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