国会中継をみることが良くあるが、先日はたまたま、有村治子議員(自民党、滋賀県選出)が、「戦没者の遺品が日米のネットオークションに出されている。対応は?」、との質疑が展開されているところだった。
当然、戦争で各地に残された遺品は単なる物ではないが、こういう物までもインターネットを介して売買されてしまう時代なのだと知った。有村議員によると、自主規制の要請ができないものかと、滋賀県遺族会の方から相談があったという。特定商品取引への規制という範疇で規制の方法を探れるのではと、若い女性議員ながらも、戦中戦後派の人々の話にもしっかり耳を傾けて対応しているのが分かった。
更に、有村議員の質問は、北方領土のこと、シベリア抑留者への対応についても、歴史をさかのぼって検証し、質疑を深いものにしており、進まぬ日露の戦後処理について、久々の若き論客として頼もしく思えた。日本のように、第二次世界大戦の戦没者の遺骨取集が進まない国はない。なにぶん、イタリアも、ドイツも降伏した時点でも早いし、大和魂などと上層部が民間人を巻き込んで返り見ない精神論がないからだろう。日本は、本土決戦まで覚悟し、兵隊たちにも虜囚の辱めを受けずと命を惜しまず「勝つまで闘う」という肉弾戦をに若者を追い込んだ。多くの尊い命が散ったが、しばらくはその数すらうやむやにしていた。
誤った判断、絶対に国体を護るという条件を引き出そうと交渉が長引き、ついには原爆の投下という最悪のシナリオに突き進んでしまった。子供たちは、食糧難で雑草までも食べているだのはいい方で、両親を亡くして、親戚すらも頼るところがない戦争孤児も多かった。遺骨は、今もって、野ざらしに置かれいる。これまでは遺族が、収集活動の中心になってきたが、高齢化しており、今後は戦後80年までには収拾を終わらせるよう国家的な対応が迫られる。
我孫子市では、毎年、戦没者追悼式を行います。
今年は、11月26日(水)10時半〜 湖北公民館
ご遺族の方だけでなく、一般の方の参列もご自由にしていただけます。
申し込み不要、直接会場においでください。平服で結構です
問合せ 我孫子市社会福祉化 7185-1111(内線 649)
なお、戦後70年・我孫子市平和都市宣言30年記念平和事業の一環として、市民の方から寄せられた戦中・戦後の体験や、平和について思うこと、我孫子市の平和事業などを綴った『戦後70年記念誌〜祈り〜』が、本年に刊行されました。海津にいなも寄稿しています。
記念誌は、PDFファイルにて、市のホームページより閲覧できるほか、市役所の行政情報資料室や図書館(我孫子・湖北台・布佐)、近隣センターでご覧いただけます。
『癒される時を求めて』に辿りつくまで
海津にいな
第2次世界大戦(太平洋戦争)において、 日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。当時は治安維持法(GHQの指示で法制が廃止されたのは10月15日)の下、弾圧・粛清された人もおおい。 敗戦直後の1945年9月では、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人であった。明治維新から軍国主義に突き進んだ大日本帝国は、人命を軽視し、負け戦は伝えまい、認めまいという風潮であったと数字が物語っている。
新憲法を制定したのが昭和30(1955)年で、それから戦没者の調査が進むようになった。GHQの占領で制限された広島、長崎の爆弾についても、「原爆」であったことが口外できるようになった。占領下の報道規制(War Guilt Information Program、略称:WGIP)の影響も徐々に解かれた。そこで戦没者とされる軍人・軍属・准軍属の数が230万人と改められて、厚生省が発表するようになったのは1977年になってからだった。
つまり、外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人とようやく、実数に近い数になったのだった。(なお、調査や遺骨収集はまだまだ不十分であり、正確な数は依然として明らかにされていないので概数にすぎない。)
この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給路の途絶により、食物不足から飢餓によって起こる餓死、栄養失調のために体力を消耗して抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出したことだ。むしろ、戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているという。それが特殊な状況でなく、あらゆる戦場で発生した。玉砕止むなしとした日本軍は、民間人にも強要する最終局面があったのは、「バンザイ」と叫んで投身自殺する母子の姿などが写真に残されて痛ましい。命を散らす宿命の若者たち、また少女や赤ん坊を含む民間人の大量自決をもたらしたことなどが、反省されるまでには時間がかかった。「戦勝報告」ばかりを新聞、ラジオに躍らせた日本軍の責任は、国民からどう問われるべきだったのか。そうした関係者は口をつぐんで鬼籍に入ってしまった。過去の美化、懐古する記録として勇ましく語る人も出てきて、事実とは違う数字についての論争に発展するなど収拾もつかない時期が長く続いてきた。
辛い、忌まわしい記憶は消し去りたい、まして徴兵によって多々の人々が犬死であったなど孫子に伝えたいとは思わない心情も加わる。戦中、戦後のしばらくの時期には英雄譚、ドラマティックな話には聴衆、読者もついてくるが、血なまぐさい凄惨な死、屍の累積する戦場などを耳にしたくなかったのは時代的な感情もあったのだろう。
しかし、事実を見た者が語り伝えなければ想像する事も遠のき、忘れ去られる。私も日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死亡ではなく、莫大な数の兵隊の餓死者であったという事実を知らないでいた。私の父は二度の徴兵をうけ、最後は体を壊して野戦病院で終戦になり、捕虜収容されたという事だけは聞いた。しかし、9割の兵士が亡くなったという「英霊」の実態には知らないでいた。
戦争末期、艦船が壊滅状態で兵糧が途絶え、多くはマラリアに感染し、飢餓地獄の中での野垂れ死にした。人肉までも食べる状況があったのだとの悍ましが事実も語られている。生き残ったことに、亡くなった戦友に対して「死ねなかった」か「死ななかった」かに自問自答しなければならなかった。戦争末期、ニューギニアの奥地で拙い英語で食料調達に行って、現地の酋長に助けられて恩義に感じていたという話を父から聞いた。戦争が終わったら、必ず日本を案内すると約束したのだと子供だった私に面白おかしく話して聞かせてくれた事があった。実際に、帰還した戦友たちがお金を集めてオリヤスという酋長を招待して、日本のあちこちを案内してお礼の宴を設けたという。そして、喜んだオリヤス氏は当時に日本兵から習い覚えた「日の丸」の歌を披露し、一同を驚かせたというエピソードを聞いたことはある。
しかし、父は夜中にうなされて、大声で飛び起きることが度々あった。まったく不明な言動をすることがあった。ある時、偶然にNHKの特別番組で対泰緬鉄道の捕虜だった記憶を語るE.ローマックス氏(英国)の事を知った。番組ディレクターが資料として持っていたローマックス氏の著書『癒される時を求めて』を贈呈された。父の心理状況と似ており、今でいうPTSDは兵士も悩まされたと知るに至った。家族をも受け入れがたい症状は、日英の兵士も共通だった。亡くなった父と心の「和解」に至るまで非常に長い年月がかかった。戦争が終わっても、それぞれの傷は心にも残る。戦争の風化、まして雄々しく美化するなどはあってはならないと思う。
*邦題『 泰緬鉄道 癒される時を求めて』は、エリック・ローマックスのベストセラー回想録(原題は『The Railway Man』、日本語訳絶版)は、第二次世界大戦中に日本軍の収容所で捕虜として拷問を受けた英国の下士官として自らの体験を綴ったもの。数十年後、テレビ報道で、当時に苦痛をもたらした日本人通訳が贖罪のボランティア活動に励んでいると知る。日本人への嫌悪感が強かったものの、怒りの気持ちを抑えきれず、ついに面会を申しいれる。彼とは立場が違うが、詰問する際の通訳として立ち会った経験は、戦後も人生に暗い影を落とし、精神的苦痛から逃れられないでいた。辛い過去に立ち向かうために供養の日々をおくっていると分かった。二人は、時間をかけながら憎しみ・悔悟の心の澱を和解へと努力を始め、互いの健康をきづかうまでの文通をするようになった。
感動のストーリーは2013年には映画(ニコール・キッドマン、真田広之らが出演)にもなった。
2016年10月25日
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