フランスは来春の大統領選を控えて、選挙がらみの報道が多くなっている。日本とは違い、フランスでは若者からお年寄りまで政治に関心が高い。特に経済の低迷、移民の問題やテロの問題等、今の政党では解決が出来ない問題に直面しており、学生の間でも政治談義は日常茶飯事で、デモ参加も当然の成り行きだ。とはいっても、フランスはどの党もあまり期待されていない。そこで若い政治家が国を変えるのも良いのではないかという考えが多くなってきた。
フランスの大統領選では、思わぬ展開が珍しくない。
1995年の大統領選で右派政党「共和国連合」からジャック・シラク党首が出馬したとき、エデュアール・バラデュール首相(当時)が30年来の友人であるシラクを裏切って立候補した(選挙ではシラク氏が勝利した)。この時、バラデュールを支持したのがサルコジ予算相(当時)だった。シラクはサルコジを息子のように可愛がっていので、サルコジの裏切りに怒った。それ以来、シラクとサルコジの確執が続いている。
サルコジは2017年の大統領選に出馬する予定だ。しかし、2007〜2012年のサルコジ政権下で5年間首相を務めたフランソワ・フィヨンや、閣僚を務めたナタリー・コシュクソモリゼら数人も、大統領選予備選への出馬を表明している。シラクを裏切ったサルコジが今度は「裏切り」に遭っているというわけだ。フランスの政界は、今や左派も右派も義理立てばかりはしていられない。
2012年5月、フランソワ・オランドが大統領に就任したとき、エマニュエル・マクロンはエリゼ宮(仏大統領府)の事務局次長に任命された。そのときマクロンは一般的にはまったく無名の人物だった。社会党内からは、「なぜ、金持ちの代名詞のようなロッシルドの人間を左派政権に迎えるのか!?」と批判の声が上がった。
その才能を買われ、2014年夏の内閣改造で、マクロンは初めて入閣した。このときは政府内からも「政治家として経験ゼロの人間に主要大臣が務まるのか」と非難の声が渦巻いた。 しかし、2015年には通称「マクロン法」(注)を制定させるなど、大統領とマニュエル・ヴァルス首相のサポートを得ながら、政治家としての実績を積み上げていった。国民からの人気も高くなり、今や世論調査では「左派で大統領にしたい人」のトップの座を首相と争うほどである。
マクロンは、エリート育成の高級官僚養成所・国立行政院(ENA)を出て財務監察官を務めた後、ロッシルド(英語読みは「ロスチャイルド」)銀行に入行し、大企業の合併などで活躍。同行のナンバー2にまで上り詰めた。弱冠38歳のイケメン、フランス語教師で高校時代に教わった女性と29歳で結婚するまでには紆余曲折。ナポレオンの妻ジョセフィーヌも年上だったとはいえ、妻・ブリジットさんは25歳年上で、離婚を経験し、3人の子供までも。自分たちの子どもはいないものの、前夫との子供とは仲良しだとか、あれやこれや始終話題にのぼる。この夏は週刊誌「パリ・マッチ」の表紙を、若々しい水着姿の夫人とのツーショットで飾り、常に注目を集めていた。そして、バカンス明けのパリのニュースは、「エマニュエル・マクロン経済・産業・デジタル大臣の辞任」だった。さらに8月30日に経済相を辞任した。大統領選に出馬するための辞任ではとみられている。
2016年4月に「左派右派のあらゆる良き意思を結集」し「左派でも右派でもない政治」を目指すと宣言し、政治グループ「進行!」(EN Marche!)を結成した。議員経験はないが、すでに1万3000人がマクロンの呼びかけに答えて参集し、「会員」増員のために、目下、草の根運動を展開中だ。大臣を辞任した理由について、フランスの景気低迷や社会的な格差拡大に対し独自の解決策を打ち出せるようにするためだと説明した。以前より大統領選への出馬が噂されてきたが、辞任に当たって苦境に陥った同国に「変革」をもたらすという決意を述べたものの、取り沙汰されていた次期大統領選への出馬を表明するには至らなかった。経済界からも厚い支持を集める左派閣僚として注目されており、大統領選出馬を見据えた動きとみられている。
(注)「経済の成長と活性のための法律案」(通称・マクロン法)多種多様な規制緩和策、2015年2月、成立を急いだマニュエル・ヴァルス首相は年に一度しか行使できないフランス共和国憲法49条3項に訴え、国民議会の表決を経る事なく採択させた。同年8月7日、憲法評議会での審議を終え、発効。デパートや有名ブティック店などの「日曜開店」の日数を年5回から12回に増やす、長距離バス路線の自由化などが提案され、それまでタブー視されてきた労働法の一部が改定された。
2016年09月19日
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