昨日は、世界遺産登録の吉報に沸いた。歴史にはいろいろ、語られるところ語られないところがある。そのどこが拾い出されるか。教科書に出てきたことだけが事実ではないということが、言われるようにもなってきた。確かに、大昔は為政者が石のモニュメントに印し、ロゼッタ石に書いて残っていたのもその一例だ。ピルスで残されたり、中東では壺の中にキリストの謂れが羊皮紙に残されたり、中国では動物の骨に書き残した。そして、紙が発明されて文字がしたためやすく、持ち運びしやすくもなった。それでも、限られた為政者の側が手にするものだったのには、どの国も同じ事情だった。
紙の歴史、「ペーパー」の語源となったパピルスの原料はカヤツリグサ系とされる植物が素材だという。もっとも、製法が異なるために現在の紙の定義からは「紙」とは言えないものだそうだが、古代文明においては記録媒体として非常に重宝された。アレクサンドリア図書館の収蔵物などはすべてパピルス。その後の古代ギリシア、古代ローマ時代はもちろん、紙に主役の座を奪われるまでさまざまな文書に使用されてきた。現在、発掘されているものは大半が断片であり、それでも西欧ではこれを読み解くパピルス学が盛んだという。それが、エジプトに紙が伝わったのは西暦1000年頃。そこからフランスは1348年、イギリスは1494年に伝わったとされている。
西洋から機械製法が伝わった洋紙は江戸時代以降、国内で産出されきたものは手作業による行程からつくられる和紙だ。一般的に保存性については、格段に違い、“洋紙100年、和紙1000年”といわれる。
日本書紀によると、610年に高麗王から日本に派遣された僧曇徴が紙を作ったとされている。つまり、朝鮮半島伝来ものっだった。国内でそれ以前に製紙は始まっていたのではないかと考えられる。現存する紙としては、614年に聖徳太子が書いた「法華義疏」が最古とされる。奈良の正倉院には地方の戸籍など、この時代に書かれた文書が多数収蔵されているという。
こうして比較すると、古代の日本は「紙」の先進国で、その伝搬先は韓国だったということだ。実際、仁徳天皇陵などは始皇帝陵やクフ王のピラミッドと比べると規模が圧倒的に大きいし、飛鳥時代、奈良時代には唐や新羅、渤海といった隣国から「遣日使」が来ている。朝鮮半島との往来が、世界から評価される和紙をつくりえたといえる。
当時の日本では写経が盛んだった。それに合わせてより良い製紙方法を学んだ、こうして都の周辺はもとより、日本全国でさまざまな和紙が生産されるようになった。
16世紀に日本に来た宣教師のルイス・フロイスはその種類を「ヨーロッパの10倍」と評し、17世紀にヨーロッパを訪れた支倉使節団を見たフランス人領主の婦人は、一行が捨てた使用済の「鼻紙」を、現地の人々が争って拾っていたとまで記録している。また、19世紀、英国の初代駐日公使であるオールコックは和紙をして「英国のどの紙よりも強い」と語っている。芸術の世界でも和紙は人気があり、画家のレンブラントは銅版画の深みを表現するために和紙を取り寄せて使っていたという。
オー・ヘンリー(O.Henry) の短編小説「最後の一葉"The last Leaf ”」というのの一節には、”Sue went into the workroom and cried a japanese napkin to a pulp."(スーは仕事部屋に入って日本製のナプキンがぐしゃぐしゃになるまで泣きました。/結城浩訳)とある。紙ナプキンを輸出するようになったのは明治・大正時代で、楮(こうぞ)製の美濃紙を用いた。来日した貿易商が日本の和紙技術に着目して、明治18年頃から岐阜を中心に美濃典具帖紙によって木版手刷りの紙ナプキンの生産が行われた。それが人気になり、盛んに輸出され、アメリカにも輸出されていたということだ。
秋の落ち葉の季節、最後の一枚が落ちた時に、絶命すると思い込む”Sue”に希望を与えるため、売れない画家が一枚の葉を壁に描いてて、奇跡を起こした話に、なんと日本の紙もエピソードを飾っていたのだ。
間もなく、夏休みとなるが、ユネスコ無形文化財でもある、埼玉県小川町「和紙の里」を訪ねてみるのもよい機会ではないだろうか。
http://www.town.ogawa.saitama.jp/0000001515.html
参照:紙の博物館 学芸部長 辻本直彦
http://www.d-laboweb.jp/event/report/140522.html 和紙の耐久性は世界でも認められ、大英博物館では修復用に細川紙がストックされている。
和紙の産地は全国各地にあるが、国の重要無形文化財に団体指定されているのは岐阜県の「本美濃紙」、島根県の「石州半紙」、そして埼玉県小川町と東秩父村で作られる「細川紙」のみだ。この3件は平成26年(2014)、「和紙:日本の手漉和紙技術」としてユネスコの無形文化遺産に登録されている。
「和紙が強靭なのは、原料である楮(こうぞ)の長い繊維が重なりあっているからです」と話してくれたのは、埼玉伝統工芸会館内にある和紙工房の若林正良工房長。洋紙は木の幹まで粉砕して使用するので、繊維が短くうえ、木の幹にある劣化につながる成分も原料に含まれる。また、粉砕後にゴミを取り除いたり白くするために、化学薬品を使うことがあるが、そのため紙が酸性になって劣化につながりやすい。和紙の強靭さは、次のように昔ながらの丁寧な手作業を続けていることによる。
和紙の原料となる植物は3種類あるが、和紙は主に楮を使うことが多い。まず楮を大釜で蒸して皮だけを剥いで材料とする。楮の皮は外側の表皮を削り取ったのち、ソーダ灰を入れた大釜で煮て、水に移し、手作業で細かいゴミやチリを取り除いていく。若林さんによればこの「楮さらし」を残す作業が美しい和紙を作るうえで重要な仕事だという。大量の皮の1枚1枚をたぐってゴミを取るのは気が遠くなるほど根気がいる作業だ。昔は、寒い冬、川のほとりで行っていたという。この後、皮をたたいて繊維をほぐし、漉舟(すきぶね)に入れて粘性のあるトロロアオイと混ぜ、紙漉きを行う。糊(のり)は使わず、繊維の重なり合い和紙の風合いが残る丈夫な紙ができる。
のどかな山あいに広がる埼玉県小川町には細い路地が走り、今も往時の面影を残す蔵や建物がぽつりぽつりぽつりと残っている。小川町駅(我孫子から、2回乗り換えで約2時間)からバスで約10分の距離に埼玉伝統工芸会館はある。会館では、和紙をはじめとする埼玉県の伝統的手工芸品を展示し、和紙工房の見学や紙漉き体験もできる。
小川町周辺では伝統的な製法の細川紙だけでなく、多くの和紙が生産され、それらは総称して小川和紙とよばれる。小川町では事前に申し込むと無料の「おもてなし案内人」の説明を受けながら町歩きができる。小川は“絹の道”といわれた八王子道や秩父往還など、古くから街道が交わる交通の要所だった。小川では和紙のほかにも建具や絹織物などの産業が発達し、多くの仲買人が訪れて商人町として栄えた。江戸時代に江戸での紙の需要が増大していったのだ。
かつて市が立った秩父往還をしばらく行くと、小川町和紙体験学習センターがある。昭和11年(1936)に和紙の研究施設として埼玉県が建設した建造物で、見学ができる。ここでも事前に申し込めば和紙の製作体験が可能。コースによって、紙漉きだけでなく、外皮を削り取る「楮ひき」など多くの工程が体験できるので、和紙について深く知りたい人にはおすすめだ。
・埼玉伝統工芸会館
http://www.saitamacraft.com/
・小川町和紙体験学習センター
http://www.town.ogawa.saitama.jp/0000001515.html
・小川町観光協会おもてなし案内人
http://www.town.ogawa.saitama.jp/0000001865.html
参照HP(見学写真あり):
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2017041031511.html
2017年07月10日
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