2016年06月25日

アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー、モナコの大会に日本人

毎年6月、世界約60ヵ国からその国を代表する起業家たちが集まり世界一の栄誉をかけて闘われるEYワールド・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤーが開催されます。 2015年11月24日、日本代表に選ばれたのは国産初のバルーンカテーテルを開発した医療機器メーカー、東海メディカルプロダクツの筒井宣政会長。各国の審査を勝ち抜いた起業家たちが国の代表として集結するモナコの大会2016に参加することに。“世界一の起業家”を奨励するこのイベントは、英BBCや米CNNなど、海外主要メディアで取り上げられるほど注目度が高い。日本では日経CNBCが6月30日(木)20:00〜20:30 の枠で放送します。

筒井氏がバルーンカテーテル事業に進出した理由には、生まれながらに重大な心臓疾患を抱えた次女・佳美さんの存在がありました。死の間際まで両親の開発したカテーテルで多くの人々が救われることを喜び、両親を励まし続けた次女・佳美さんは、先天性の心臓疾患でした。なんとしてでも助けたいと全国の有名病院をまわるも、9歳の時に「現代の医学では手術は不可能」との最終診断を宣告されてしまいます。それでもあきらめきれず海外での治療に望みを託しますが、結局はアメリカでの手術も無理だとわかります。

娘の手術のために貯めていた費用、当初は心臓病を研究している機関に寄付を考えましたが、主治医に相談したところ「人工心臓の研究をしてみたらいかがですか」と意外なアドバイスを受けることになります。確かに人工心臓があれば娘を助けられるかもしれないが素人にできるのだろうかという不安がありました。それでも「10年も研究を重ねれば理想的な人工心臓ができるかもしれない、もしできなくても、医療の発展に貢献ができるかもしれない。」という主治医の言葉に医療の世界に踏み込むことを決意します。

医療に対しては全くの素人ながら一から勉強を始め、医療用材料の研究会にも参加して人工心臓開発を開始します。当初は個人研究レベルでしたが、国や公的機関から研究助成金が受けられるように、昭和56年に株式会社東海メディカルプロダクツを設立します。人工心臓は動物実験するところまでこぎつけましたが、人間に使用するにはそれまでの10倍以上の資金と人材が必要とわかり、残念ながら開発を断念せざるを得ませんでした。

そのころ、医療関係者からIABPバルーンカテーテルの医療事故の話をよく耳にしていました。当時はアメリカ製しかなく日本人にはサイズが合わないため合併症をよくおこす問題がありました。またカテーテルが硬くて目的の位置までいけずに治療できなかったり、バルーン部分が使用中に破れてしまうなどの事故もあったりしました。IABPバルーンカテーテルは開発に高度な技術を要し、国内では生産が無理と言われていましたが、人工心臓開発で培ったノウハウを活かして、努力に努力を重ねて国産初のIABPバルーンカテーテルの開発に成功しました。

IABPバルーンカテーテルは平成元年の冬に世に出ました。しかしながら治療用ではないこのIABPバルーンカテーテルでは、重い心臓病を患っていた佳美さんを救うことはできませんでした。しかし佳美さんは、両親が自分の病気をきっかけに医療機器の開発に取り組み、患者さんを救うカテーテルを完成をさせたことをとても喜んだそうです。

あるとき、宣政前社長がIABPの営業出張から帰り佳美さんが入院していた病院によった際に「今日も○○病院で採用してもらい、カテーテルを使ってもらったよ」と報告すると、佳美さんは「これでまた一人の命を救うことができたね」と自分のことのように喜んだそうです。 佳美さんは残念ながら平成3年12月に亡くなりましたが、「娘に使用しても安全な医療機器、カテーテルの開発を」という強い思いは「娘の為」から「患者さん」のために変わり、そして現在は当社の創業の精神・企業理念の「一人でも多くの生命を救いたい」という言葉に繋がっています。
柔道をやって高校2年のときにインターハイ団体戦で全国優勝しました。決していちばんの選手ではなかったんですが、優勝するまで、非常に厳しい練習をして精神力も鍛えられました。師範はとても厳しく、「おまえが悪い」と怒られても、決して言い訳はしません。そうした精神力が私の基本にあると思います。

父の会社を継いだときも、私は長男ですから、どんなつらいことがあっても乗り越えなければならないという責任感がありました。親や一家の始末は、後を継ぐ長男がしなければならない。当時はそういう風潮が色濃く残ってましたからね。父が連帯保証人になって抱えた借金は当時、会社の年商の2倍。今なら何十億円という金額です。厳しい取り立てもありましたね。

自社の樹脂加工技術を生かし、アフリカの女性向けに髪を結うビニールひもを開発しました。それも大商社の知人に「絶対に儲かるよ」と言われたからです。若かった私は何よりも「儲かる」という言葉に敏感に反応しました。淡々と借金を返していたら、返済に72年もかかってしまいますが、儲かれば一気に借金を返せるかもしれない。知人の話を聞いているうちに、「こうすれば売れるだろうな」という感触も得ていました。

早速、試作品をつくって知人に持っていったんですが、アドバイスはくれてもビジネスは別でした。潰れかけている会社を大商社は相手にしてくれません。方々に手を尽くしましたが、「筒井さんが行くんだったら、応援はするし紹介もする」と言ってもらうのがやっと。私は、つくることはできても売ることはできません。半ば、あきらめかけていました。

しかし、誰もアフリカに行かなければ、借金返済は72年。それを待たずに会社は潰れるかもしれない。私が行けば、半分の36年になる可能性だってある。そこで自分で行くべきだと決断したんです。ただ問題は言葉でした。おカネも時間もなく英会話学校に通うこともできない。そこで、地元ホテルの喫茶ラウンジに出向き、外国人を見つけては話しかけ、実地で英語を学ぶことにしました。結果、半年も経たずに英語を使えるようになりました。長男として会社を背負い、借金を返すために必死だったからです。

 最初の1週間はおカネを使うだけで、現地の貿易商も相手にしてくれない。貿易商のおばあちゃんが亡くなって、葬儀に参列することになったんです。葬儀では現地の衣装を着て、踊って、食べて、飲んで2週間目を遊んで過ごしました。でも、それが功を奏しました。仲間として認めてくれたのでしょう。滞在3週間目にして注文が取れたんです。

実は、それまでは風土病が怖くて、現地の人が出す料理や飲み物は決して口にしなかったんです。でも、現地は暑くてのども渇く。思い切って、一緒に同じ料理を食べ、飲んで過ごしているうちに仲間にしてくれたんです。結果、そのビニールの髪結いひもは西アフリカの7~8カ国で大流行しました。その売り上げをもとに、7年後の1974年に借金を完済することができました。その儲けで、医療の研究を始めたのです。

EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーは、1986年にEY(Ernst&Young=アーンスト・アンド・ヤング)により米国で創設され、新たな事業領域に挑戦する起業家の努力と功績を称えてきた。過去にはアマゾンのジェフ・ベゾスやグーグルのサーゲイ・ブリン、ラリー・ペイジらもエントリーしている。2001年からはモナコ公国モンテカルロで世界大会が開催される。

posted by Nina at 05:19| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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