2016年07月22日

自由民主党の歴史研究

 自民党の金権選挙は、行き着くところがないほどだった。そこで田中角栄が首相だった1974年7月7日に実施された参院選は、選挙前から「金権選挙」「企業ぐるみ選挙」などの強い批判がでるようになった。田中が全力投球で臨んだものの、旧体然の自民党では議席数は伸びず、保革伯仲となった。そしてオイル・ショックによる狂乱物価が国民の不満を高め、さらに、選挙戦の最中から田中首相の金にモノを言わせての「金権政治」を公然と批判していた三木武夫副総理と福田赳夫蔵相が、同月12日と16日に相次いで辞表を提出した。このころになるとメディアも、怖いものがなくなったように首相を批判するようになった。

 そして、10月9日発売の「文藝春秋」11月号に掲載された立花隆「田中角栄研究」によって、田中の政治資金に関する疑惑の詳細があかるみに出た。国民の批判を背景として田中辞任の流れが党内で固まり、11月26日に首相辞任を表明せざるを得なくなった。

 副総裁の椎名悦三郎の裁定で三木武夫が後継首相になったのだが、それは、福田を指名すれば田中が反発し、大平に決めれば「田中亜流」の謗りを免れないなかで、懸命に配慮した人事であった。三木自身、「青天の霹靂」だと驚いて見せたが、どの派閥からも不満は出なかった。これら、党内うちわだけで時の首相が決まる時代だった。

 三木首相は、田中の金権政治に対して「クリーン」が売り物で、経済成長に対しては「分配の公正」を標榜し、総裁公選規程改正、政治資金規正法改正、公職選挙法改正などを打ち出した。これには、自民党内の抵抗が強く、さっそくに反三木の動きが広がった。そんな三木を活気づかせたのがロッキード事件である。

 1976年2月4日、米上院外交委員会多国籍企業小委員会で、ロッキード社側から同社の裏金が日本政府高官に渡ったとの情報が公開された。これを受けて、ただちに三木首相は、真相究明まであとへ引かないという決意を明らかにした。フォード米大統領に親書を送り、米側に資料提供を要請した。

 このロッキード事件が田中角栄の政治生命を完全に奪った。ところが三木首相が「田中」を標的にしたロッキード事件の真相究明に躍起になると、党内の「三木おろし」が強まりだした。結局76年12月5日の総選挙で自民党が敗北したことにより三木首相は辞任した。

 そして福田赳夫首相が誕生した。福田は安定成長論者で池田勇人とは肌が合わなかったため、同じ大蔵省出身ではあったが池田派には入らず、憲法改正、小選挙区制などの政治理念は岸信介の後継者と言えた。

 大平が幹事長時代に、歴代首脳に対する挑戦状のような報告書を書いた香山健一、佐藤誠三郎、公文俊平たちと勉強会を持つことになった。

 社会工学研究所を主宰する牛尾治朗が次のように語っている。「一九七七年の暮れ頃だったろうか、幹事長としての大平さんと、佐藤誠三郎さんや香山健一さん等、社会工学研究所に集まる学者とで議論をしたことがある。学問に対して謙虚な態度を持つ大平さんに、若い学者達がとても感激をして、これからもこういう議論を続けたい、これからも喜んで協力をしたいという雰囲気になった。(中略)一九七七(正しくは一九七八)年の五月頃から六か月にわたる勉強会を始めた」

 そして、この勉強会によって作成されたのが、総裁予備選挙に際しての大平の政見「政治に複合力を」であった。

 「『自由民主党の活力の源泉は、党内に自由で多様な見解がつねに活き活きと息づいており、それが無数のパイプを通して日本社会のあらゆる階層、職能、地域と結びついていることである』。この結語の一文は、ブレーンとなった香山らの日本型多元主義を明らかに反映している。

79年6月の東京サミットを自分の手でやるのだ、と強く思い、またメディアも福田が圧倒的に強いと報じていた。ところが、田中派の全面的支援を得て、大平が予想を覆して勝利したのである。

 福田は「天の声も、たまには変な声がある。敗軍の将、兵を語らず」と名言を残して、本選挙を辞退した。

 首相に就任した大平は79年1月25日の国会での施政方針演説で「経済中心の時代から文化重視の時代に至った」と打ち上げ、岸、福田、そして中曽根のような国家主義的色彩のない、戦後民主主義と平和感覚を正面からとらえた政治姿勢を鮮明にした。そして香山、佐藤、公文たちを中軸に200人以上の学者、文化人が参加した9つの政策研究会を設けた。


野党は政権政党を激しく、意地悪く批判し、矛盾を厳しく指摘するが、この国を、そして国民の生活をどうするかという具体的な対案はほとんど示していないことがわかり、対案を示して激しく攻め合っているのは、実は自民党内の主流派と反主流派、非主流派であり、自民党の少なからぬ派閥が、それこそ多様な意見を自由に述べ、闊達に論議する、いわゆる日本型多元主義によって政治のあり方がつくられているのだと認識するようになった。

 それに対して小選挙区制だと、執行部の統制力は強まるが、多様な意見を自由に述べ合い、闊達な論議をする柔構造、多重構造はなくなってしまうのではないかと危惧せざるを得なかった。そして、日本型多元主義の大平政権に少なからぬ期待感を抱いた。大平が改憲論議を嫌っていたことも知っていた。


1979年4月8日には統一地方選挙が実施され、前年の京都府と沖縄県に続いて、東京都と大阪府で革新自治体が崩壊した。自民党が東京で12年ぶり、大阪府でも8年ぶりに知事の座を奪還したことは、いわゆる保守復調を広く印象付けた。

 だが、大平首相が一般消費税導入に正面から取り組んだことが裏目に出て、79年10月の総選挙で、自民党は248議席と過半数割れの敗北に終わった。

 そして、福田、中曽根、三木派との抗争が激化して、いわゆる「四〇日抗争」となり、首班指名投票では何とか大平が勝ったものの、翌年5月に社会党が提出した内閣不信任案が福田、三木派の欠席によって可決された。そこで大平は解散に踏み切ったのだが、選挙期間中に大平は急死してしまった。

 そして大平の急死が有権者たちの同情を買い、自民党は衆参院のいずれも圧勝し、暫定というかたちで各派が妥協して大平派の鈴木善幸が首相になった。鈴木政権の政調会長を務めていた田中六助が、ハト派の田中、そして右ではなく左へ振れるべきだとする香山健一たちとの結びつきが右派だった中曽根を穏健化させた。

 この後、中曽根と旧大平ブレーンが直接結びつく上で主導的な役割を果たしたのが、劇団四季の主宰者の浅利慶太だった。香山たちは、大平が設けた9つの政策研究会の報告書を鈴木首相に継承し、実行に移してほしいと考えが、受け入れられなかった。ところが浅利氏を通して、中曽根が報告書を詳細に読み込んでいることを知って、香山健一らは積極的に協力することになったのだ。

 中曽根は、筋金入りの改憲論者であり、「憲法改正の歌」までつくっているのだが、首相に就任すると「憲法は日程にのぼらせない」と言い切っている。

 中曽根は「戦後政治の総決算」をスローガンに、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実現したが、これは「戦後政治の総決算」の主張は大平の言い出したことで、中曽根はブレーンとともに、大平のスローガンと政策まで受け継いだのである。

 1986年7月6日、中曽根首相は衆参ダブル選挙で歴史的な大勝を収めた。衆議院は300議席、参議院は72議席だった。

 そしてこのとき、香山健一は「安定多数を確保した自民党はむしろ自由民主主義と右翼全体主義の違いを今後明確にしていくべき」と主張し、次のように踏み込んで書いている。

 「左翼が強く、我が国にも社会主義政権が成立する危険が現実に存在し、また周辺の国際環境も冷戦とアジア共産主義の勃興、浸透が進んでいた一時期に、我が国の政権党であった自由民主党が戦前保守と戦後保守の大連合、リベラルと右翼的諸勢力の連合という形で辛うじて多数派を形成しなければならない時期があったことは政治の現実ではありますが、衆参同日選挙に示された民意は自由民主党が左右両翼を切って新たな健全な国民的多数派を形成しつつあることを明確に示しております。労働組合のなかの自民党支持率も急上昇しつつあります。

 このようなことを考慮に入れると、我が国社会の一部に存在する右翼的勢力――それは第一に戦争と侵略への深い反省がなく、第二に日本の国体、精神文化の伝統について全く誤った、ゆがんだ固定観念に凝り固まっており、第三に国際的視野も、歴史への責任感も欠いております。こうした愚かしい右翼の存在と二重写しにされることは馬鹿馬鹿しいことだと思います」(世界平和研究所編『中曽根内閣史 資料篇(続)』世界平和研究所)

 さらに香山は、靖国神社は「日本軍国主義の象徴そのもの」であると指摘し、「自民党は護憲政党である」と明確に宣言すべきだと強調した。
そして、それに応えるように、中曽根首相は、1987年8月29日に行った自民党の軽井沢セミナーの講演で、靖国問題にも触れながら、「右バネがはね上がってはならぬ、左の過激派が跳梁してはならぬ、われわれは中庸の道を行く」と語った。

改憲論者であった中曽根の豹変である。自らを「風見鶏」だと称し、ダブル選挙の大勝を「ウイング(翼)を左に伸ばした」結果だと言い切る。

 中北浩爾氏は「中曽根内閣は日本型多元主義の黄金時代であった」とまで語ったが、自民党が柔構造を失った現在から見ると、この指摘は当を得ていると言える。

Text by Tawara Soichiro 
posted by Nina at 22:56| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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