米報道によると、芸術家のオノ・ヨーコ(83)がニューヨークの病院に救急搬送されたと27日報道された。ABCテレビはオノさんの広報担当者の話として「重症のインフルエンザのような症状があり、担当医が病院で診断を受けるべきだと判断したと理解している。27日にも退院できると期待しており、脳卒中ではない」と伝えた。
オノとの不仲説をいわれたポール・マッカートニー(元ビートルズのメンバー)とは、1995年、オノが『ヒロシマ・スカイ・イズ・オールウェイズ・ブルー』をポールとその家族、ショーン(ジョンの遺児)とで共同制作した。これはヨーコの肝いりで広島原爆投下五十周年に平和を祈念する為につくった曲で、ポールらに参加を呼び掛けて実現したのだった。かつて、オノについてポールは「ジョンをたぶらかした酷い女だと思っていたけど、間違っていたよ。(中略)その正反対だった。(中略)彼女は断固として自分自身であろうとしているだけなんだ。たいていの人よりもね」と述べて、芸術家同士として認め合っている間柄だそうです。オノがいうには、ジョンの曲よりポールの曲のほうが好きとは彼女らしいスマートさです。
2009年6 月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。金獅子賞が1974年に同祭典に導入されて以降、初の日本人受賞者となった。ビエンナーレ事務局は、オノの受賞理由について、「パフォーマンス・アートとコンセプチュアル・アートの先駆者。現代においてもっとも影響力を持つアーティストのひとり。ポップ・カルチャーと平和活動のシンボルとなるずっと前から芸術的な表現方法を開拓し、日本と欧米の双方において永続的な痕跡を残してきた」と説明しています。
平和の使徒として日本人女性としても勇気ある声を上げるオノ・ヨーコさんの快復をお祈りします。
(文中の敬称略)
ヨーコ・オノはビートルズのジョン・レノンと1969年に結婚以来、世界中から注目を浴びている日本人芸術家だ。レノンの暗殺(!)により、結婚期間は短い。米国入国手続きでは、結婚で夫婦名を連結できるので、ジョン・オノ・レノンに改名したという睦まじさも伝わった。セントラルパークを百万人で埋め尽くす、人心を誘導するメッセージ性が強いと危険視されてCIAからマークされたとの説もあるほど、80年12月の事件は暗殺(!)ともとられた。オノにも脅迫めいた手紙が届いたというが、その後も、ダコタ・マンションに住み、芸術活動を続けてきた。
彼女がレノンを愛するファンの為にセントラルパークにストロベリーフィールズというメモリアルを作ったのを、海津にいなも見に行って目にしている。昨年は、ニューヨークの近代美術館(MoMA)でオノ・ヨーコの60〜70年代の芸術活動を紹介する企画展が開催されるなど、平和活動と合わせ再評価の機運にあり、日本出身の芸術家として最も名の知られた存在である。特に、ヨーコと言う名の日本女性だったら一度で名を覚えられるのは、彼女のお蔭だ。
オノの母方の祖父・安田善三郎(元貴族院議員)で、安田財閥の創始者である安田善次郎が母方の義理の曾祖父。義理の伯父には、医学者の小野康平や外交評論家の加瀬俊一(元国連大使)、歌舞伎役者の十三代目片岡仁左衛門、伯母にはロシア人のヴァイオリニストの小野アンナがいる。加瀬英明(外交評論家)、十五代目片岡仁左衛門は従弟という環境で育ったいわゆるお嬢様だ。学習院とは天皇陛下と同級生という。
戦前、父の転勤に伴いニューヨークに転居、幼少期をすごし帰国。その後、学習院女子中・高等科を経て、学習院大学哲学科に入学(中退)。戦後も1953年に家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外の超高級住宅地といわれるスカースデールに移り住み、これもお嬢様校といわれるサラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。在学中の1956年にジュリアード音楽院で学ぶ一柳慧と知り合い、一柳とともにジョン・ケージの講座に通い思想に大きく影響を受けた。1956年にと結婚(1962年に一柳と離婚)。退学し、前衛芸術の活動を開始する。
芸術家としての交際は広がり、1962年の11月28日に、ジャズミュージシャンで映像作家のアンソニー・コックスと結婚するが、一柳との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に無効とされ、同年6月6日に再度結婚。二人の間に1963年8月8日、娘キョーコ・チャン・コックスをもうけるが、1969年2月2日に離婚。すでにジョン・レノンと知り合っていたヨーコは、1966年、ロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、それを契機として活動の場をロンドンに移した。
ここからが伝説ともなっている「インディカ画廊」でのレノンとの出会いだ。オノの個展『未完成の絵画とオブジェ』("Unfinished Paintings and Objects")の開催前日のプレビュー・ショーに訪れたレノンは、そこに展示されていた作品「天井の絵」("Ceiling Painting (YES Painting)")に惹かれた。それは部屋の中央に白い梯子が置かれ、観客はそれを昇り天井からぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品、コンセプトアートの一種だった。レノンはそれを回想し「もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っています。
二人は、1969年3月20日にジブラルタルで結婚。当時、激化するベトナム戦争に反対して、平和イベント『ベッド・イン』("Bed-in")や『ウォー・イズ・オーヴァー』("War Is Over, If you want it")ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」("Love and Peace")の活動を展開した。親日派のレノンは、オノの別荘のあった軽井沢のあちこちに痕跡を残し、万平ホテルに泊まったり、レノンの別荘探しを海津もファンの仲間と情報交換したり、月並みにリバプールもインドも訪ねたという訳です。
2016年02月28日
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