組織には、いいところもある一方で、そして腐敗するともある。政治で相当な利害関係が生じるということもあって、警察の調査にあたることも多々起きてきたが、美術界でも昨今、おきているのも周知のことで残念である。
日展における「書」の問題についても報道で明るみに出て、以降、大幅な組織改定が行われた。この種の話は美術関係者の間ではしばしば噂されていたものの、これまで大手メディアが大々的に取り上げたことはなかったため、インターネット上でも注目を集めた。脳科学者の茂木健一郎さんは年功序列と新陳代謝のない停滞」などとツイートし、公募展に疑問を呈したばかりだ。今回の報道を受け、「審査者が誰なのか、応募者が誰なのか、お互いにわからないダブルブラインド審査」ができるよう改革すべきとも話した。
2013年の日展には1万3919点の応募があり、2358点が入選した。11月1日から12月8日にかけ東京で開催後、全国を巡回する。東京会場は、六本木の国立新美術館だ。99年間にわたり会場となっていた東京・上野の東京都美術館から07年に引っ越した。「ハコ」は変わったものの、今回の報道により、厳しい目が向けられ、組織改編へとなった。
ところで、こういうことは繰り返された歴史があったのだ。
明治中期、日本画の組織として旧派の「日本美術協会」と新派の「日本美術院」の対立構造が明確化していた。大正初めには、さらに黒田清輝の帰朝によって、西洋画も旧派の「明治美術会」と新派の「白馬会」という対立が発生する結果となった。
このように美術界の抗争が激しくなる中で、これを調停する目的から文部省が各派を統合する形で国家主導の大規模な公募展、すなわち官展として開始したのが文展こと「文部省美術展覧会」。文展は官展(=政府主催の展覧会)であり、画家の登竜門のひとつとして重要な存在、「初期文展」とも呼ぶ。しかし1907年(明治40年)に第一回展が開催されるものの、その審査員の選定が問題となり、火種はくすぶったままになった。
1913年(大正2年)には洋画部門における評価と日本画同様の新旧二科でないことを不満とした一派が二科会として袂を分かち、またこうした時期に、岸田劉生、高村光太郎らが加わる「ヒューザン会」を開始している。そして大正3年に横山大観が審査員を外されたことを遠因として日本美術院が再興するが、これを契機として大正以降は美術団体が更なる乱立を見せた。
1916年(大正5年)、第10回に至って特選および推薦の制を設け、これに永久に審査を経ることなく出品し得る特権「無鑑査」を付与。1919年(大正8年)には「帝国美術院」の発足にともなって、「帝国美術院展覧会」(帝展)と改称する。文展の「無鑑査」制も継承。しかし1935年(昭和10年)に時の文部大臣・松田源治が挙国一致体制強化のために制度変更を敢行し、これに伴う増員により美術界は紛糾(通称「松田改組」)、その結果展覧会そのものは芸術院より分離され再び「文部省展覧会」となった。こちらは初期文展に対して「新文展」と呼ぶ。敗戦後の1946年から日展(日本美術展覧会)となった。1923年、1935年、1945年を除き、ほぼ毎年開催されている。ただし、1940年、1944年は、特殊な開催方式だった。日展は、2006年まで上野の東京都美術館で開催されてきたが、老朽化のため同美術館の改修工事が行われたことと、より広い展示スペースを確保するため、2007年から六本木の国立新美術館で開催されていた。
2013年10/30 J-cast news
2015年12月26日
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