2016年01月11日
デビッド・ボウイの死
デヴィッド・ボウイが大の日本好きであったことはよく知られており、彼のステージパフォーマンスには日本文化の要素がいくつも取り入れられていた。ボウイは特に、歌舞伎の様式美や女形という要素に大きな影響を受けた。五代坂東玉三郎に女形の化粧のやり方を教わることすらしたが、女形の化粧をそのまま真似することはせず、むしろ女形に両性具有的魅力を見出し、ステージへの応用ができるかを模索した。また、服飾史研究者 Helene Thian によると、ボウイは歌舞伎の「早替わり」の要素をステージパフォーマンスに取り入れた最初の欧米人であるという。ボウイは「スペース・サムライ」と名付けた日本の袴にインスパイアされた衣装や、着物にインスパイアされた衣装を好んで羽織り、曲の合間などに早替わりするパフォーマンスで観客をわかせた。
ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、1960年代に舞踊家リンゼイ・ケンプのダンス・スクールに通っていた時であった[20]。衣笠貞之助の無声映画に影響を受けたことを自認するケンプは、生徒のボウイに武満徹を聴かせ、共に日本の伝統芸能、能や歌舞伎を研究した。1967年にはチベット仏教の僧侶になろうと本気で考えていたボウイであったが、ケンプのレッスンをきっかけとして、黙想に生きる僧侶とは正反対の、ロックスターという派手やかな歌舞音曲の世界へと、人生の進路が決まった。ボウイが北米市場で成功しようともがいていた1970年代に大きな助けとなったのが服飾デザイナー、山本寛斎との出会いであった。山本は1973年のジギーや1976年のアラジン・セインの衣装をデザインした。
今日では、ボウイのような立場は、異文化から要素をただ盗んできただけと糾弾されがちであるが、前述の服飾史研究者 Thian によると、日本からボウイに対してこのような苦情が申し立てられることは、まずないという。彼女によるとその理由は、ボウイは自身の創造性を、東西文明を融合させ戦後世界を癒すために捧げたが、これはボウイの日本への敬意の表れであり、日本人も彼の敬意を愛しているからだ、という。
1999年 フランス芸術文化勲章コマンドール
1999年 バークリー音楽院名誉音楽博士号
1/10の訃報に対し、世界がボウイの死を悲しんでいる、ご冥福をお祈りします
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