ところで、海津にいなが初めて訪れた外国は、フィリピンでした。友人の知り合いが青年海外協力隊として、イロイロ島で水産業の調査研究に行っていたので、一緒に訪ねました。マニラには私のペンパルがいたので、彼女と彼女の友達とも会いました。そして、マニラにあるホセ・リサール記念館も見学しました。ホセ・リサール博士の像は日本リサール協会 が1961年6月に建立したということでした。そして、記念会の内部を見学して、驚いたことは、日本女性の肖像画が掛けられていたのです。リサールが結婚を望みながらも、革命の為に恋をすてることに・・・。このことがあるため、フィリピンは特に激戦地でありながら、アジアの中では親日的と言われるのかもしれません。もう少し、ホセ・リサールの事を紹介してみましょう。
ホセ・リサールは母方に日本人の血が流れていて、1888(明治21)年2月29日、ヨーロッパに向かう亡命の旅の途中、日本に立ち寄っています。 リサールはその 前年、マドリード大学で医学を学ぶかたわら、スペインとカトリック教会を批判した小説をヨーロッパで発表し、スペイン政府から反逆の書として激しく非難されます。フィリピンに帰ったリサールを待っていたのは、小説の発禁と国外追放の命令です。
日本にはごく短期間、逗留する予定でしたが、2、3日ですっかり日本の魅力に取りつかれ、出発を先延ばしします。そこで出会ったのが「おせいさん」こと臼井勢似子さんです。維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいました。
22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、たちまち日本語を覚え、彼女に早春の東京や日光、箱根などを案内して貰ったりしました。
「日本人は温順、平和、勤勉で将来ある国民である」「日本とフィリピンとは緊密な交渉を持たねばならないだろう」などと、本国の家族や友人への手紙や日記に書き残していています。
またリサールは歌舞伎で見た忠臣蔵に感動を覚えます。身を捨てても、主君のために尽くす浪士たちの行動に、わが身をおきかえて共感したようです。また、おせいさんの方も、兄が彰義隊に加わり、上野で戦死しているということがあって、独立の志士として不遇な状況にあるリサールに深い同情の念を抱きました。こうして27歳のフィリピン青年は、日本とおせいさんにすっかり魅了されてしまいます。
一方で、こうした事情からスペイン公使館から、日本に開業医として残って欲しいという要請も受けています。心の通うおせいさんとともに、この国に留まりたいという気持ちが湧いたのも当然でしょう。しかし、故郷や世界各地にはフィリピン独立のために、自分を待っている同志がたくさんいます。断腸の思いで、彼は当初の計画どおりヨーロッパに向かう決心をします。
4月12日、横浜港からの出発を明日に控えて、リサールはおせいさんとの別れの一時を、目黒のあるお寺で過ごします。おせいさんも武士の娘、リサールの志を察して、別れの覚悟は固めていました。おせいさんと別れた晩、リサールは次のような手記を残しています。
日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、
花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ!
おせいさん よ、さようなら、さようなら。・・・
思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。
この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。
私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。
どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。
どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら・・ さようなら・・
ヨーロッパに渡ったリサールは、2冊目の小説「反逆者」を発表し、フィリピンでの独立活動家の機関誌にも投稿を続けます。1892年には家族や友人の反対を押し切って祖国に戻りますが、逮捕され、ミンダナオ島に流刑されます。
4年間の流刑を終えてマニラに戻った彼を待ち受けていたは、そのころ激化していた独立勢力の武装蜂起を教唆したとして、名ばかりの裁判を受け、銃殺刑に処せられるという末路でした。1896年12月30日の朝、35歳のホセ・リサールはスペイン兵士の放った銃弾に倒れます。「最後の訣別」は、フィリピン独立に挺身する人々に永く愛唱され続けます。12月30日は独立の英雄であり、国父であるリサールの死を悼む日として、今も国家による儀式が行われています。
リサールが銃殺された2年後の1898年4月25日、スペインとアメリカとの間で米西戦争が勃発します。「フィリピン革命軍を援助する」と宣言したアメリカ軍は、極東艦隊でスペイン艦隊を撃破してマニラ湾に入り、民衆はアメリカ軍を歓呼して迎えます。そして、米国が支配者に・・・
現在、リサール記念館が建てられている、イントラム ロスは、リサールが処刑までの最期の日々を過ごした要塞だったとこです。リサールは今もフィリピンの人々を見つめ続けているのです。
おせいさんのその後はイギリス人学者と結婚し、80歳の天寿を全うして、雑司が谷墓地に夫と共に眠っています。唯一の楽しみはフィリピン切手の収集だったそうで、そこにはかつての恋人リサールの肖像が描かれていたそうです。
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