
広島市に生まれ住んでいた原爆の被爆者である少女、佐々木禎子さんは、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルです。禎子さんの家は、爆心地の傍でしたが、幸いに元気に育ち、運動神経抜群で将来の夢は「中学校の体育の先生」になることでした。1954年8月の検査では異常なかった。また小学6年生の秋の運動会ではチームを1位に導きその日付は1954年10月25日と記録されており、偶然にも自身の命日となるちょうど1年前であった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。長くても1年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始めました。
禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。最後はお茶漬けを二口食べ「あー おいしかった」と言い残して微笑んだという。
死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちを慰霊しようと、禎子さんの級友たちが中心となり、自分たちも発病の心配を抱えていたので、何かをしなくてはと平和を守るための祈念の像をつくろうと呼びかけ始めました。ラジオのニュースなどで報じられて、全国から多くの寄付が寄せられる運動になっていきました。そして、昭和33年のこどもの日(5月5日)に『原爆の子の像』が完成しました。この像や禎子さんと折り鶴のことは、アメリカの子どもたちにも伝わり、「平和のための像を作ろう!!」と募金を集め、シアトルの平和公園に銅像できました。
また、2010年からは原爆投下を支持したトルーマン元大統領の親族と禎子さんの親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の大統領図書館に折り鶴のうちの1羽が平和記念のシンボルとして寄贈されました。禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋さん(我孫子の平和祈念式典に参加)は「2千以上のようです」と語っています(2010年2月22日朝日新聞)。実際の数については遺族も数えておらず、不明です。三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の広島市立幟町小学校に寄贈された他、これまでにも海外各地の非核平和の地におくられてきました。その貴重な一羽が我孫子市の平和のシンボルとして新たに加えられたわけです。
これまでに、禎子さんの非核平和への願いは海外でも知られるようになり、作品となって広まっています。
書籍
『サダコと千羽鶴』(Sadako and the Thousand Paper Cranes)(エレノア・コア)
『サダコは生きる』(カルル・ブルックナー)
楽曲
『さだ子と千羽鶴』(ジョージ・ウィンストン作曲/演奏・リヴ・ウルマン朗読)
『Sadako Folding Cranes』(Laura Veirs作詞・Laura Veirs作曲・Laura Veirs歌唱)