かつてはあまりに客席が寂しくて、市民の関心のなさに生徒が泣き出してしまったエピソードすらありました。その後には、ミネハハのコンサートという形で市民会館に多数を集客するという時もありました。その企画もたまたま知人でした。自治会に知らせたり、様々な工夫を凝らして地道なPRを続けてきた結果が、この70周年につながったのだと我孫子市民の力を感じました。いつもかいがいしく、黒子として委員会をサポートしている人々の姿もさすがです。
初代・染谷会長の意思(市職の聞き書き 『ヒロシマメモリー 千葉県我孫子に生きる被爆者』(1982年)、県内から出兵し被爆者となった方も多くいたなどの概数表なども掲載。聞き取りに応じてもらうまでの苦労、会長以外は会員の名前は伏している。編集は自治労我孫子職員組合)によって、建立の非核平和の記念碑をつなぐ市民リレーになって続いてきているのだなと思いました。
こんな街はそうはないのではないか・・・。
エレノア・コアーによる『Sadako and the Thousand Paper Cranes(禎子と千羽鶴』の中学進学直前の佐々木禎子さんの折鶴は、非核平和の願いとなって、アンネ・フランクの日記のように世界に平和への願いを語り継いでいます。ご親族が、今回の70周年のイベントに参加され、ギター演奏と朗読劇が披露された。ヒロシマから遠く離れた地で、真摯な核廃絶の活動が続いているのを知って、残り少ない折り鶴を寄贈することを快諾したと言われ、嬉しいものがありました。

これまでの市民委員の皆様の努力、昭和の時期の革新自治体としても名を知られた市長、県内でも有力な市職員組合、県内でも希有な女性県議との政治連携もあって染谷さんの活動を後押ししてきたと聞きます。その上に、現市長の3期におけるサポートは大したもので、広島にも参列を続けている。しかも、東日本ガスは非核平和の灯を寄贈するなど、平和宣言都市が目に見えたものになっている。市長は70年周年の時点で広島・長崎以外の自治体ではそうはないのでは、良かった!いいね! と思います。
会場を後にして、母の見舞いに向かう車の中で、夫に今回のイベントの心温まる成功を見て感じ、それこそ我孫子市の市民力の底力を力説、だから何か生まれてくる強さがあるのかもしれない、そこをこれからの我孫子の強みに出来るなどと、感激さめやらぬで語りました。
意気揚々と病院についたものの、帰りは意気消沈。市外に住んでいる子供たちに様態を伝えたりでした。
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