21歳で応召後は苦難だらけだった。我が父と同じニューギニアにいったということを知ったのは、ある夏の新聞記事だった。人として扱われることがない、びんたを食らう、人を殺す、仲間も殺される、生きた心地などないのが戦地だということをオドロオドロ市区描いた。帰還できた兵士は1割となってしまったという。水木しげるは左腕を失い、復員後は魚屋、アパート経営など職を転々とした後、紙芝居屋、貸本マンガ家と時代遅れの画業に従事。65年に「テレビくん」で講談社児童まんが賞を取り「やっと食えるようになった」時には40歳を超えていた。
ログイン前の続き手塚治虫や「トキワ荘」グループに代表されるモダンなマンガが全盛の時代。その中で、妖怪や異界を銅版画のような細密さで描き、せこく泥臭い人間どもが右往左往する水木マンガは、異様に目立った。68年に「ゲゲゲの鬼太郎」がアニメ化されて以降、妖怪ものの大家としての地位は不動となり、妖怪研究者としても「妖怪画談」「日本妖怪大全」など絵入りの著作を通じ、イメージ豊かな妖怪像を世に送り出した。
水木さんの腕を奪った「戦争」もまた、創作の大きな柱だった。「白い旗」など戦記もの、実体験を元にした「総員玉砕せよ!」、集大成の「コミック昭和史」……。「長くウンコをしているだけで」上官に「ビビビビビーン」とビンタされる戦争、戦闘で生き残ると「次は真っ先に死ね」と命じられる戦争を、黒く乾いた笑いにくるんで描き続けた。
つらい戦争体験は、南方への憧憬(しょうけい)を植え付けた。兵士たちより現地の住民との交流が性に合った。国対国、敵か味方かを超えた「楽園」の幸福を繰り返し語った。
半面、辛酸をなめた男ならではのずぶとい合理性と、人の才を見抜く目も備えていた。マンガが売れるといち早く量産態勢を整え「うまくて早くてヒマそうな」若手に手伝いに来てもらう。つげ義春は手伝いの合間に「紅い花」「ねじ式」といった傑作を描いた。池上遼一、鈴木翁二らも水木さんのもとから巣立っていった。
南の島の「楽園」に想(おも)いを馳せつつ、東京都調布市の仕事場で、晩年まで多忙な日々をぼやいていた水木さん。終わらない眠りに入り「フハッ! 霊界とはこんなところだったか」と驚いているだろうか。
参照:朝日新聞 12月1日
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