心においては謙虚、体においては腹八分目。
アインシュタインは「シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています」といっていた。
社会貢献にも積極的だった女優のオードリー・ヘップバーンは 「控えめであるためには、その前に何かに立ち向かうことが必要です」という言葉を残している。
控えめの反対の世の中は声のでかい人が主立つものだ。遠慮がない人は、上品さが感じられないから遠慮したいと思う、しかし、出るところに出たら主張できないのではこれも更に情けない。オードリーやアインシュタインはその存在感で圧倒しその意思を伝え、共鳴を得られるが、そうでない人たちはどうやって、多数に伝えていけるのだろうか。
そこで、川北義則の『短所は直すな!』(リベラル社)に、「内に強さを秘めた控えめさ」、 強さを秘めた控えめさを身につけるようにとあった。内に強さを秘めた控えめさは長所であるというのだ。生き方の中で強さを身につければいいのだ。まだまだ、海津にいな もまだやりようがあるかもしれない。日本人に多い、「自分の意見がいえない。何に対しても控えめになってしまう」というところがあるから、一歩踏み出せない
「冷静である」、「思慮深い」、「他人に優しい」、「謙虚である」、「地味な仕事をきちんとこなす」という性質を持つ人は、協調性があると言われる一方で自己主張がしにくい。分かってくれる人と出会うのをひたすら待つのみだ。グローバル化の言われる国際社会で、きちんと評価されにくい。日本の会社は地道にやっていると、どこかで誰かがその埋もれた存在に目をやってくれることがある。しかし、そうはいっても中にはそれに甘んじることになってしまう人もいたのだろう。
うまく自己主張ができないとしても、控えめな人には長所も多い。特に女性は特にそうした役割を躾けられてきたのが近代化以降の日本であると私はジェンダー研究に取り組んで、わかってきた。生きる上で、ここぞという時には、女性であっても、やはり主張しなければならないこともある。これまでは、いたずらに自己主張せず、自分の言動に抑制を効かせる生き方は上等だと私は思ってきた。
それでどうなったかというと世界の先進国で比較しても日本は女性の政治参画、つまり候補者となって政策を主張する、「私が出ます!」という事が憚られ、数となること自体が難しいから女性政治家が少ない。アジア、アフリカ諸国では高度な教育を受けた女性たちが、選挙に挑んでポジションを得ているのに反して、いまだに明治維新の元老政治の意向が反映された配分のまま、日本の女性の政界進出が目覚ましくは進まない。かつて、我孫子では女性の市議の比率が高かった時代があったのだから、我孫子の男性たちが男女平等の意識があって、女性候補にも投票したということなのだろうとは海津にいな の分析だ。女性の長所をうまく表出すようにできると、街づくり、もちろん国づくり=新未来は好循環に変化していくのではないかと思うのだが、我孫子市民の皆さまはどう思われるだろうか。それを問う、時期が我孫子の秋の選挙だ。