「戦争をしたくない」と言うと国を守るために命を捨てるくらいの愛国心がないのかと非難されたのが先の戦争に向かう時代の雰囲気であった。戦争に協力しない態度は「非国民」と言われたり、全体主義におちいるムードが作られた。帰る燃料をもたず飛行機での特攻隊だけでなく、舟で敵に突撃する天回(人間魚雷)は最初の特攻兵器)であった。民間人には幼児も子供も巻き添えに自決を促し、日本人として死ぬことをいとわない行為を戦争遂行者は強要した。こうした事が分かってきたのは戦後になってからだった。
本年は70周年の時期でもあって、なかなか知られない戦争秘話が紹介されたりもした。下記もその一つだったので、国会前のデモの毎週夕方の金曜日、紹介しておきたいと思う。
敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻」を公然と拒み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊があった。夜間攻撃を専門とする「芙蓉部隊」だ。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、美濃部正という29歳の少佐だった。
死を回避するかのような言動を異端視し、「1億玉砕」「1億総特攻」といった空虚で無責任な精神論が幅を利かせていた当時の日本。正攻法で戦う信念を曲げず、科学的思考と創意工夫で限界に挑んだ軍人がいたことは、まさに奇跡と言うほかない。
芙蓉部隊は、海軍の戦闘804、812、901の3飛行隊によって1945(昭和20)年1月に静岡県藤枝基地で再編成された夜間戦闘機(夜戦)部隊を総称したもので、基地から仰ぎ見る富士山の別名(芙蓉峰)にちなんで名付けられた。
美濃部元少佐の手記や元隊員らが編んだ部隊史によると、発足時点で2人乗りの艦上爆撃機「彗星」60機、1人乗りの戦闘機「零戦(ゼロ戦)」25機を保有。米軍の沖縄進攻に伴い、主力部隊は鹿児島県の鹿屋基地、さらには岩川基地に移動し、終戦までに出撃回数81回、出撃機数は延べ786機に上った。
この間、戦艦、巡洋艦、大型輸送船各1隻を撃破したほか、沖縄の米軍飛行場大火災6回(うち1回は伊江島飛行場に揚陸された艦載機600機の大半を焼く)、空母群発見6回、撃墜2機など、特攻をしのぐ戦果を上げる一方、47機が未帰還となり、戦死搭乗員は76人に達した。
福岡県小郡市に住む坪井晴隆さん(89)は、芙蓉部隊の最年少パイロットとして沖縄戦に参加した。階級は下士官の一つ手前の飛行兵長(飛長)。美濃部少佐の指揮下に入る前には、特攻志願の願書を提出した経験を持つ。18歳になったばかりでした。もう私たちを外地に出す余裕はなかったんでしょうね。帝都防衛が任務で、B29を迎撃する夜戦隊にいました。ここで出会ったのが彗星です。
迷いました。まだ18でしょ。田舎にいる母のことなど、一日中あれこれ考えました。だんだん他のやつのことが気になりましてね。もうみんな願書を出したんじゃないか。自分だけ出してないんじゃないかと。さんざん迷った末、願書に階級と氏名を書きました。
直属の上司である分隊士は、荒木孝さんという学徒出身の中尉です。京都の舞鶴出身で、24、5歳だったでしょうか。私たちを非常にかわいがってくれた人です。その荒木中尉の部屋をノックしました。夜の11時ごろです。
「坪井参りました」
「何だ今頃」
「これ持ってきました」
そしたら、いきなり怒鳴られたんです。
「貴様、後顧の憂いのない人間じゃないだろ。お母さんはどうなる!」
私の差し出した願書を、荒木さんは自分のポケットにねじ込みました。その時、荒木さんの目からボロッと涙がこぼれ落ちたんです。もう、びっくりしました。叱られたのも意外だったし、どうして荒木さんが泣くんだろうと。何が何だか分からなくなり、私も泣き出してしまいました。2人で大泣きしました。あの晩のことは忘れることができません。
翌45(昭和20)年2月初めに藤枝の芙蓉部隊に転勤しました。フィリピン航空戦でやられて内地に帰ってきた部隊が中心で、それに私たちをプラスして再結成されたと聞きました。3飛行隊のうち、私の所属は戦闘812飛行隊です。各隊とも搭乗員はパイロットと偵察員合わせて100人くらいおったでしょうか。
全体を指揮する美濃部少佐は30歳前の方でしたが、とにかく異彩を放っていました。頭の回転が速く、弁舌が巧みというか、説得力があるんです。美濃部さんとしては、藤枝で盛り返して、もういっぺんフィリピンに向かいたかったんだと思います。ただ、もうその頃は米軍の沖縄進攻の機運が強まっていました。
「昼は戦果より損害の方が大きい。昼は寝て、夜間攻撃でいく」というのが美濃部さんの方針でした。米軍とは兵力が違いますからね。主力機に彗星を採用したのも美濃部さんの発案です。それまでの夜戦隊は「月光」という双発機を使っていたんですが、旧式で使い物にならなかったんです。
彗星は当時としては珍しい水冷エンジンで、構造が緻密で整備が面倒だったから整備員に嫌われていました。それで稼働率が落ちていたのを、「それなら俺が使う」と美濃部さんが引き取ったんです。私は厚木の夜戦隊で彗星の経験があったから目を付けられたんだと思います。
坪井さんの回想によると、芙蓉部隊も特攻隊に編成されたらしいといううわさが一時流れ、隊内が騒然としたことがあったという。しかし、このうわさは間もなく否定され、隊員たちの動揺は収まった。
45(昭和20)年2月末、千葉県・木更津基地の第3航空艦隊司令部で、連合艦隊主催の次期作戦会議が開かれた。議題は「沖縄方面に敵進攻時の迎撃作戦、連合艦隊方針及び各部隊戦闘部署について」。第3、第10航空艦隊の幕僚と、その指揮下の部隊長、飛行長ら約80人が出席した。美濃部少佐は最若輩で末席にいた。
この会議で、海軍首脳部が示した沖縄戦での全機特攻方針に美濃部少佐が強硬に反対。芙蓉部隊だけは特攻編成から除外され、通常攻撃を続けることになったのだ。
「木更津からカンカンになって藤枝に帰ってきた美濃部さんが、われわれ搭乗員を集めて『俺は貴様らを特攻では絶対に殺さん!』と言ったのをはっきり覚えています。すごいことを言う人だなあと思いましたね。普通の指揮官とは全く違っていました」と坪井さんは語る。
「よその隊からは、とんでもない奴らだとか、いろんなことを言われたらしいです。臆病者?美濃部さんのことをですか?それはないんじゃないですか。臆病などとは対極の方でしたから。そんなことを言う人がいたとしたら、それは自分の臆病を隠すためだったと思いますね。3人の飛行隊長も美濃部さんには心酔していました」
それにしても、一介の前線指揮官が公式の会議で軍全体の方針に反旗を翻すことなど、普通では考えられないことだ。最悪の場合、軍法会議で抗命罪に問われ、極刑に処せられてもおかしくない。いったい、どんなやりとりがあったのか。
99(平成11)年5月、美濃部元少佐の死後2年目に私家版として刊行され、関係者だけに配布された手記「大正っ子の太平洋戦記」から、会議の模様をつづった部分を次項で引用する。
最後の一戦というのに、部隊長、艦隊司令部はいつどこで指揮官先頭に立つのか?比島(フィリピン)戦同様、若者たちのみけしたてて、また上層部だけが逃げる心算なのだろう。
GF(連合艦隊)首席参謀・黒岩少将の説明「敵沖縄進攻の迎撃戦は、菊水作戦と呼称、全力特攻とする。今や航空燃料は月1機当たり15時間分(通常60時間以上)に枯渇している。搭乗員の練度は低下、必死特攻にのみ勝機を求め得る。台湾方面から1AF、南九州から5AF、これに3AF、10AFを投入して、南北から敵を挟撃、一挙撃滅する....
《芙蓉部隊を指揮した美濃部元少佐の手記から》
しかし、私の頭には、マリアナ戦に備えた戦闘316飛行隊が、GFの不認識ゆえにマリアナ、硫黄島で空母夜襲の能力を抹殺され、迎撃戦に空しく全滅したこと。比島戦レイテ決戦の敵の対空砲火、戦闘機の重層配備、優れたレーダー戦の中に、散華した特攻600余機の若き命をもってしても敗退したGFの無策、天皇に対しての比島敗戦責任は誰が負うているのか?比島戦の敗因及び敗戦責任はどのようになっているのか?
練習機までつぎ込んだ、戦略、戦術の幼稚な猪突でほんとに勝てると思っているのか。降伏なき皇軍には、今や最後の指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民におわびする時ではないか。
訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒兵を死突させ、無益な道連れにして何の菊水作戦か。海軍伝統の楠公精神はいずこにありや。将軍、幕僚の突撃時期の説明は不明瞭であった。
(注)「楠公精神」は南北朝時代の武将楠木正成が唱えた「滅私奉公」「七生報国」などの精神。「菊水」も楠木正成の紋所に由来する。
末席から立ち上がっていた。ミッドウェー作戦会議(昭和17年4月岩国基地)以来2度目の、GF作戦案に対する批判であった。
「全力特攻、特に速力の遅い練習機まで繰り出しても、十重二十重のグラマンの防御網を突破することは不可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島戦で証明済み」。GF参謀は、末席の若造、何を言うかとばかり色をなした。
「必死尽忠の士4000機、空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮士官の言とも思えぬ」。敗北思想の卑怯者と言わんばかり。
満座の中で臆病者とばかりの一喝。相手は今を時めくGF首席参謀黒岩少将。私はミッドウェー作戦以来のGF作戦の無策、稚拙を嫌というほど体験してきた。この黒岩参謀こそ、その元凶であった。
開戦以来3年余、誰よりも多く弾幕突破、敵至近の最前線で飛び続けてきた。後方にあって、航空戦の音痴幕僚に何が分かる。軍命は天皇の命令とはいえ、よもや大御心は、かかる無策非情の作戦を望んでおわしますはずがない。
馬鹿の一つ覚えの猪突攻撃命令には、もう我慢がならない。レイテの逆上陸タ号作戦に対しても、陛下のご懸念をごまかして強行、あの惨敗。このような海軍から規律違反で抹殺されようとも引き下がれない。
「今の若い搭乗員の中に死を恐れる者はおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるには、それだけの成算と意義が要ります。死に甲斐のある戦果を上げたいのは当然。精神力一点ばかりの空念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい」
「それならば、君に具体策があると言うのか」
私はあぜんとした。GF参謀ともあろう者が一飛行隊長に代案を求めるとは。その結果、芙蓉部隊は特攻編成から除外、夜襲部隊として菊水作戦に参加することになった。GF司令部も、3AF意見、大西中将、故有馬司令官の軍令部への意見具申、および何よりも隊員の凄まじい熱意と成果に、異例の変更をしたらしい。
《芙蓉部隊を指揮した美濃部少佐のその後についても、最後に触れておく。》
美濃部少佐は終戦後も残務整理や進駐軍による接収準備のため岩川基地にとどまり、10月に復員した。公職追放が解除されると、請われて航空自衛隊の創設に参加。要職を歴任し、70(昭和45)年7月に最高位の空将で退官した。
「政治家、役人、ジャーナリスト、国民世論の軍事音痴に振り回され、魅力のない職場であった」という自衛隊勤務。ただ一つの誇りは、「二度と侵略戦争をしない」ため、祖国自衛のみに限定する兵器体系と装備を厳守したことだという。
晩年はがんと闘いながら、97(平成9)年6月に81歳で亡くなるまで、特攻や戦争の意味を自問し続けた。遺稿となった手記『大正っ子の太平洋戦記』では、愚劣な作戦に執着し、特攻命令という「統率の外道」を乱発した軍上層部を痛烈に批判。「これだけ負け続け、本土決戦とは何事か。皇軍統帥部高官たちは天皇に上奏、これ以上戦うも勝算ありませんと切腹しておわびすべき時期である」とまで記している。
その美濃部氏も戦争の最末期、米軍の南部九州進攻時の作戦計画を作成するよう命じられ、ひそかに芙蓉部隊の玉砕計画を立てていた。海軍兵学校出身のパイロットを中心に編成した特攻部隊を自ら率い、米軍に体当たり攻撃を仕掛けるというものだった。
1989(平成1)年8月に記した別の手記『特攻の嵐の中で揺らいだ指揮官としての私』では、その計画を「私の限界であった」と告白。「平成時代の人々の中には、特攻でなくってよかったとか、特攻隊員はかわいそうであったと片付ける人が多い」と指摘した上で、「特攻の是非は単純には決し難い」とも述べている。
「私には特攻攻撃を指揮する自信がなかった」―。美濃部氏が確信していたのは、「人間がその生命を絶つのは、罪人以外は自らの意思、本人の納得のもとに行われるべきである」ということだけだった。
遺稿の最終章は、戦後の日本人に対する苦言が続く。「平和、非戦を叫ぶのみで、飽くなき経済繁栄飽食を求め、30億余の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策不十分」。独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す」という戦時中の軍部の命令と同じだと言い切っている。
アジア諸国との関係も含め、太平洋戦争の敗北を「日本人の独善性の過ち」と捉えた遺稿は、こう結ばれている。「天を恐れ、常に慎ましさを忘れないでほしい」
出典(部分省略にて、時事ドットコムより紹介):
http://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508b0006
2015年08月21日
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