「はよ逃げるんやっ」
焼夷(しょうい)弾の嵐で天井が崩れかけた防空壕(ごう)から強く外へ押し出された。その時の必死な表情が、最後に目にした母の顔となった。
1945年6月5日の神戸大空襲。山田清一郎さん(80)=埼玉県小鹿野町=の母は、崩壊した防空壕に埋もれた。父は3月の空襲で失っており、山田さんは10歳で孤児となった。
「ここに母ちゃんがいる」と思うと離れられず、2日間ほど防空壕の前に座り込んだ。空腹に耐えかねて食べ物をあさり、また戻る。その繰り返しだった。
終戦後も頼る人はいなかった。「拾うか、もらうか、盗むか」。それしか生きる道はなかった。弁当を食べている人の前に手を出す。屋台の客の食べ残しにとびつく。残飯もすくって食べた。
三ノ宮駅近くの焼け跡に壊れた大きな金庫があった。数人の仲間と寝泊まりした。冬場は寒さをしのぐため、汽車に無賃乗車して、行き先もわからぬ車内で眠った。「狩り込み」と呼ばれる取り締まりで捕まったこともある。悪臭がする浮浪児を職員は「一匹、二匹」と数え、裸にしてホースで水をかけた。「ばい菌の塊」「野良犬と同じ」と言われた。なぜ浮浪児になったか、わかっているはずなのに。母の顔を思い出し、涙がこぼれた。
一つ年下のアキラという少年がいた。大阪と神戸の空襲で母と祖母を亡くし、出征した「父ちゃん」が帰る日を待ちわびていた。兄弟のようにいつも一緒だった。
ある日、元町駅近くの店から2人でトマトを盗んだ。店の人に追われ、人混みを抜けて通りに出た瞬間、走ってきた車にアキラがひかれた。車の下でピクリとも動かない。即死だった。真っ赤な血が路上に広がり、つぶれたトマトが転がっていた。
運転していた米兵は、アキラをシートにくるんで車に乗せ、走り去った。声を出すこともできなかった。「アキラを思い出すから、わたしは今もトマトを食べることができません」
46年秋。仲間と一緒に無賃乗車で東京に向かった。母のいた防空壕跡の土をポケットに詰めこんで。
上野駅の地下道に新聞をしいて寝た。同じような子がたくさんいた。新聞売りやモク拾い(たばこの吸い殻集め)などの「仕事」もした。同年代の子が学校に通う姿をみても、何も感じなくなっていた。
残飯にあたり、自らも含め数人が腹痛で転げ回ったこともある。栄養失調による衰弱死や凍死も含め「地下道で子どもが死ぬのは珍しいことではなかった」。名古屋から来た少年が地下道で命を落とした。死の間際、「母ちゃん、母ちゃん」と小さな声で呼んでいたのが忘れられない。
■「戦争は心をゆがめる」、講演で体験語る
今年7月16日。秩父市立吉田中学校で開かれた講演会で、山田さんは生徒たちに戦争孤児の体験を語っていた。
空襲の残酷さもアキラの死も、ありのままに。最後に、受け取る人のない「母への手紙」を読み上げた。
「ありがとう、お母さん。あなたの子どもはここまで生きてきました」
長野県の孤児施設に入り、13歳で3年ぶりに小学校に通った。孤児への差別や偏見は根強かったが、「馬鹿にされたくない」と耐えた。定時制高校をへて23歳で夜間大学に進学。30を超すアルバイトをしながら学び、卒業後、27歳で中学校の教員になった。母やアキラに「ここまで生きてきたよ」と言いたい。その思いが支えだった。
浮浪児だった過去は妻子にも詳しく語ってこなかった。講演などで積極的に伝えるようになったのは、19年前に退職した後のことだ。
本当に混乱した状況では自分と家族を守るので精いっぱい。子ども一人で焼け跡に取り残されていても誰も目を向けない。戦時の人の心の冷たさが今も胸に刻まれている。
「戦争は心をゆがめる。生き残った子どもにも生涯消えない傷を残す」。「野良犬」と呼ばれながら生き抜いた一人の戦争孤児の思いだ。(編集委員・清川卓史)
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■戦後の孤児12万人超 公的支援行き渡らず
厚生省(現・厚生労働省)が48年に実施した一斉調査によると、沖縄県を除く全国の孤児総数は12万3511人だった。内訳は、空襲などによる戦災孤児が2万8248人、国外からの引き揚げ中などに親を失った引き揚げ孤児が1万1351人、病死などによる一般孤児が8万1266人などとなっている。
政府は45年9月、養子縁組あっせんなどを柱とする「戦災孤児等保護対策要綱」を決定。文部省(現・文部科学省)は学童疎開中に孤児になった児童らを対象に「合宿教育所」を各地に設けた。だが、街頭には浮浪児があふれ、一部の民間施設は私財を投じて救済に奔走した。
戦争孤児問題に詳しい立教大学の前田一男教授(日本近代教育史)は「国の孤児救済策は形だけはあったが、実際はほとんど機能しなかった。施設不足も深刻で食糧事情や待遇も劣悪。多くの孤児に公的支援は届かなかった」と指摘。「自己責任で生きることを強いられ、犯罪まがいの行為に手を染めるしかなかった孤児もいた」とも語った。
出典:
朝日新聞 7月28日
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