一月末にドイツの元大統領ヴァイツゼッカー氏が亡くなり、彼の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という言葉が、朝日新聞などにも繰り返し取り上げられた。
この言葉は、ドイツ降伏四十年(1985年)の際にヴァイツゼッカー氏が行った演説の一節だが、当時も今もこの言葉は賞讃される。特に中韓の新聞はドイツはこんなに誠実に反省しているが、日本は反省が不十分と引き合いにだされる。しかし、その人たちがこのヴァイツゼッカー演説を読んだことがあるのか、というと疑問も抱く。全文(日本語)は、海津にいなブログにも掲載しているので、是非ご覧になっていただきたい。
http://kaizublog.seesaa.net/article/288818943.html
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ドイツ連邦議会というこの言葉は、ナチスドイツによるユダヤ人迫害、大量虐殺(ホロコースト)に触れた項目に登場する。ヴァイツゼッカー氏は、「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、ということはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」と述べ、ナチスの犯罪はヒトラーを筆頭とする少数の犯罪者によるもので、だからドイツ人全体の罪ではないと言う。当時子供だったり、まだ生まれていなかったドイツ人には「罪」はない。罪はないが、ドイツ人は「過去に対する責任を負わされている」。その責任とはナチス犯罪という「過去」を「心に刻む」ことであるとし、そのために過去に目を閉ざしてはならないという文脈で、「過去に目を閉ざす者は……」と語られる。
つまり、冒頭の一節はドイツが行った戦争ではなく、ナチスの犯罪について語ったものだということである。実際、ヴァイツゼッカー演説でも「歴史の中で戦いと暴力に巻き込まれる」こと(つまり戦争)はどの国にも起こり得るが、「ユダヤ人という人種をことごとく抹殺する」ことは「無比」の犯罪だと、まったく別の次元のものだとして語られている。
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むろん、戦前の日本はナチス犯罪のような人種迫害や民族抹殺とは違うのであるが、東京裁判でのシナリオはナチス犯罪を裁いた「人道に対する罪」でいわゆるA級戦犯を起訴しようとした。しかし、そうした事実は発見できず、判決は「人道に対する罪」自体を取り上げなかった。簡単に、ヴァイツゼッカーの演説を日本の戦争犯罪の謝罪を促すのに援用するのは間違いだと言える。
戦後の処理についても日独は対照的である。日本はサンフランシスコ講和条約をはじめ、各国との間で条約を取り交わし、戦争賠償について誠実に清算を行ってきた。一方、ドイツは冷戦下、東西に分かれており戦争の賠償は事実上棚上げされ、各国との講和条約や正式な賠償協定は結ばれなかった。一方で、ドイツは十兆円を超える戦後補償を行ってきたが、それはすべて人種や宗教を理由とした虐殺や迫害、つまり戦争で侵攻していった先での殺戮とは無関係のナチス犯罪に対してであった。むしろ、国内問題に使ったとも言えれば言える。
ドイツの賠償問題は未解決だと主張される余地は残されているわけで、最近、債務危機にあるギリシャがドイツに戦争賠償を要求するという報道がなされたが、それこそ賠償されていないことを理由に要求する事実に適っているとは言える。
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その意味で、ヴァイツゼッカー演説は日本の中韓への賠償問題には、あまり参考にならないのだ。もちろん興味深い部分もある。それは戦争に触れた部分である。弁護士であった彼は、言葉を慎重に選んではいるが、第二次大戦の開戦の際、ソ連も「自らの利益のために」ポーランドに侵攻したと言い、ヒトラーの台頭を英仏が放置したことについては「無実とは言いかねる」というチャーチルの言葉を引用し、戦後に起こった東欧からのドイツ人追放に対しては「(ドイツ人は)不正にさらされた」と指摘する。
これは、日本の首相が、対米演説のなかで、日米開戦は日本にも責任があるが米国にも一端の責任があると主張し、かつ満洲でのソ連の蛮行やシベリア抑留に触れることにも等しい。ナチス犯罪に対して、戦後にうまれたものにまで罪はないが、それでも国民としての責任はあると言い、一方で戦争に対しては巧に戦勝国の非も、公然と指摘する。ヴァイツゼッカー演説に学ぶとすれば、この「強か(したたかさ)」だ。
参照:
日本政策研究センター所長 岡田邦宏 『明日への選択』平成27年3月号
2015年08月16日
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