2015年06月20日

「アンネのバラ」によせて

 「アンネの日記」は全国各地の図書館に蔵書されて、戦争の悲惨さを語り、命の尊さを伝えるベストセラーとして名高いが、昨年は図書館で切り裂かれるという嫌な事件が発覚したということもあった。

 そのアンネにちなんだ美しいバラがあり、そのバラの苗が日本にも伝わり、バラ生産量が全国一の岐阜県大野町で育てられて、各地に広められてきたことはあまり知られていない。

 第2次大戦中にユダヤ人強制収容所で亡くなった少女アンネ・フランク(1929〜45)を悼み、ベルギーの育種家がつくった。アンネの父オットー・フランクさんが1972年、奈良県の牧師に贈ったのが日本でのルーツ。その後、京都府の元高校教諭が息子と栽培して全国各地に送り、広まった。岐阜県には約30年前、県ユネスコ協会を通じ、大野町のバラ農家青木宏達さん(58)の元に苗1株がやってきた。接ぎ木で年10株ほどを育て、小学校などに寄付してきた。今年は、岐阜県のカメラマンとの縁あって大槌町(岩手県)にも贈られた。地元では「逆境に耐えたアンネゆかりのバラで、被災者や被災地に訪れたひとにも癒やしになればうれしい」と話す。
アンネのバラ.JPG

 犠牲となった人々、その縁者の生き方は、実のところ決して簡単に癒されることはない。 アンネの死後に義理の姉となるエバ・シュロスさん(86)は、アンネがナチスの強制収容所で命を落としたけれど、エバさんは生還した。戦後70年の今、義妹アンネへの複雑な思いと激動の半生を語った。

 「アンネには、少女とは思えない、どこか近寄りがたいオーラがあった」と、ロンドン市内の自宅で4月、エバさんはアンネとの数奇な縁を語った。エバさんは1929年5月、ウィーンで製靴工場を営むユダヤ人中流家庭に生まれた。両親と3歳年上の兄との穏やかな暮らしに暗雲が垂れこめたのは33年、エバさん4歳の頃。隣国ドイツにヒトラー政権が誕生し、ユダヤ人排斥のうねりは欧州に広がっていた。

 10歳になった39年、第2次大戦が勃発。一家は追われるように、オランダのアムステルダムに移り住んだ。近所に住んでいたのが、同い年のアンネ・フランクだった。「アンネはファッションやヘアスタイル、男の子にも興味があった。うぬぼれも強く、おしゃべり。私とは正反対だった」と、当時を振り返る。アンネは「友人の一人」に過ぎなかった。その後、2人の人生が複雑に絡み合うことなど予想もしなかった。

 まもなく、オランダにも独軍が侵攻。エバさん一家は抵抗組織の助けで、隠れ家に潜んだ。同様に身を隠したアンネに会うこともなくなった。潜伏生活が2年余り続いたある朝、「密告」を受けたナチス親衛隊に踏み込まれる。

 一家は拷問にも等しい取り調べを受け、ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所へ。最愛の父と兄から引き離され、エバさんは母のエルフリーデさんと共に近くのビルケナウ強制収容所に入れられ、飢餓と過酷な強制労働でやせ衰えていった。シャワー室に入れられるたびに「毒ガス」におびえ続ける日々。便所はバケツ1個。5人が一つのコップで奪い合うようにスープをすすった。家畜のような扱いに何度も高熱を出し、生死の境をさまよった。

 収容から約8カ月後の45年1月27日、ソ連軍が収容所を解放。エバさんは九死に一生を得た喜びをかみしめる間もなく、父と兄の悲報を知る。「兄は終戦の約1カ月前、父はわずか3日前に力尽きた。私と母が無事なことも知らずに」

 アンネも独北部の収容所で命を落としたが、生き延びたアンネの父オットーさんが戦後、エルフリーデさんと再婚。エバさんはアンネと義理の姉妹となった。「重荷だった。その後の私の人生は、まさに『アンネの影』だった」と語る。

■嫉妬を捨て「日記」の続編
 「アンネの日記」がオランダで初出版されたのは終戦直後の47年。その後、世界中に広まったが、そこには父オットーさんの熱心な「宣伝」があったという。「オットーは、アンネを救えなかった自分を責め続けた。アンネが残したメッセージに救いを求めた」と、エバさんは考える。

 だが、当時のエバさんの心に、アンネの言葉は「響かなかった」。アンネが日記の中で「人間の本性は善だと信じている」と吐露するが、エバさんは「収容所での経験をする前に書かれたものだから」と思わずにはいられなかった。収容所には冷酷なナチス将校だけでなく、生き残るためには他人を顧みない収容者もいた。極限状態の「人間の本性」を見せつけられた。

 エバさんの憎悪は、ナチスの残虐行為を止められなかった「世界」にも向けられた。アンネに執着する継父オットーさんへの複雑な思いもあった。心の中に渦巻くどす黒い感情。「この世にいないアンネばかり注目され、生き残った私は苦しみを抱えて生きている。それが許せなかった」

 救いの手を差し伸べたのは、他ならぬオットーさん。「人を憎めば自分を惨めにするだけだ」とエバさんに諭し続けた。いてついた心はぬくもりを取り戻していった。「私はアンネに嫉妬していたのです」

 エバさんは収容所体験を人前で語ろうとはしなかった。終戦直後、世間に過去を振り返る余裕はなかった。「数十年たって世間に心の準備ができた時、元収容者の多くは偏見を恐れて過去を語りたがらなかった。子どもたちに重荷を背負わせたくなかった」

 転機は40年以上たった86年。ロンドンで「アンネの日記」のイベントに招かれ、促されるままに収容所体験を初めて告白した。聴衆は衝撃を受け、「アンネの続編」を書いて欲しいという依頼が殺到。迷った末、受け入れた。「アンネの日記は素晴らしいが、収容所のことは書かれていない。それだけでは真のホロコースト(ユダヤ人らの大量虐殺)を伝えることはできない」と考えたからだ。

 エバさんは戦後、しばしば悪夢に襲われた。自分と母が、ガス室に送られる「死の選別」を受ける場面だが、「収容所体験の話を人前でするようなって、悪夢はとまった」と言う。

 戦後70年の今年、エバさんは各地のイベントや学校で講演している。終戦記念の5月8日の前後には、ドイツのテレビ特番にも出演した。ナチスの残虐行為について「ヒトラーの命令に逆らえなかった」と釈明する将校もいるが、エバさんは「多くの人が当時、残虐行為に喜んで手を染めていた」と憤る。一方で、ドイツ人の若い世代に、こう諭す。「祖父母のしたことに罪の意識を感じることはない。ただ歴史を学び、それを忘れないでいてほしい」(ロンドン=玉川透)

     ◇

 〈アンネの日記〉 アンネ・フランクはナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アムステルダムの隠れ家に家族とともにこもった。44年に逮捕され、ドイツの強制収容所で15歳の生涯を閉じた。隠れ家での生活、戦争や家族への思いをつづった日記は世界的ベストセラーになり、60以上の言語に翻訳されている。


参照:
日経新聞デジタル 6/11 
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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