気にしていた最近のネパールの様子が少しわかる記事があったので、ブログに一部を掲載しておきたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネパール地震の発生から二か月になる今、現場で感じるのは、この地震が、首都カトマンズとそれ以外の地域の格差や、カトマンズ市内でも見える格差を如実に映しだしており、今後、押し広げていく可能性もあるという点だ。
地震が起きた直後の被害に関する報道は、人口の多いカトマンズの様子に集中していた。山間部は道路が狭く曲がりくねっており、所々で土砂崩れが起きている。行くことそのものが難しい。また、確かにカトマンズ市内にも被害がひどい地域はある。だが、発生翌日の夜にカトマンズ入りし、空港から市内中心部の宿泊先に移動した私は、市内の様子を見て「あれ?」と思った。
テレビの映像などから、カトマンズに入るまでは、市内は壊滅状態に近いのではないかと考えていた。空港からの道中、多くの人が雨の中でも建物の外で夜を明かしていたが、事前の想像と異なり、崩れている建物がほとんど見当たらなかった。
翌朝、市内中心部を歩いた。繁華街のタメル地区は、ほぼ無傷だった。近くの空き地には大勢の人々がテント暮らしをしていたが、自宅が倒壊したのではなく、余震を恐れて、屋外に避難していたのだ。地震発生当初、市内の空き地を埋め尽くしていたテント暮らしの被災者の多くは、こうした人々だった。数日が過ぎると、自宅に戻る人が増え、次第にテントの数は減っていった。最終的に本当に行き場を失った人だけが、空き地に残った。5月も半ばをすぎ、再びにぎわうようになったショッピングモールの前にも、テントは残り続けた。ここに残った人々こそが、自宅が実際に被害を受けた「被災者」だったのだ。だが、国際社会のネパール地震への関心はぐっと低くなっていた。
◇
カトマンズ市内では、建物の倒壊は一部の地域に集中していた。
一つは、市街地を囲む環状道路沿いに広がる、もともと沼地だった新興住宅街ゴンガブ地区など、地盤の弱い地域だ。その中でも、柱が細いといった構造に問題を抱える建物だけが、横倒しになってぐしゃりとつぶれるように倒壊した。
もう一つは、古い建物だ。市内の観光名所ダルバール広場では、古い寺院や高い塔は倒壊したものの、周囲の建物は無傷だった。地盤がしっかりした住宅街は、ほぼ被害を受けていない。そのコントラストは、不気味なほどくっきりとしていた。
次に見えたのは、首都と地方の大きな差だ。
5月6日、地形的に険しく大きな被害を受けた北東部の山間部シンドゥパルチョーク郡に向かった。カトマンズから、細く曲がりくねり、所々で土砂崩れを起こしている道を約3時間。道中は、ほとんど被害を受けていない集落と、完全に倒壊した集落にはっきり分かれていた。おそらくは地質や地形の問題なのだろう。だが、被害を受けている集落の方がはるかに多く、こうした地域の再建には長い時間がかかるだろうと感じさせられた。
1日かけて、ほこりまみれになりながらシンドゥパルチョーク郡を回り、夕方にカトマンズに戻ってきた。市街地に入ると、強い違和感を感じた。
多くの商店が営業を再開し、人出も戻り、まるで何事もなかったかのような光景が広がっていた。ちょうどこの日あたりから、多くの商店が開き始めていた。ほんの1、2時間前に見た地方での廃虚の様子が、まるで幻のように感じた。
その夜、タメル地区に食事に出た。任務を終えた救助隊か、人道支援NGOのスタッフなのか、ラフな服装の外国人が、タメル地区に多い西洋人好みのカフェでビールを飲んでいた。ほんの数十キロ先の山間部とカトマンズでは、全く違う時が流れていた。
◇
カトマンズから車で半日。そこからさらに、徒歩で3日かかるトレッキングの聖地ランタンは、雪崩で壊滅的な被害を受け、ほぼ全員が村を離れ、カトマンズのチベット寺院に身を寄せている。村全体が、地形が変わるほどの被害を受けているため、帰郷のめどは立たない。ギンドゥ・チリンさん(48)は「カトマンズは暑くてかなわない。ここには着の身着のままで来たし、故郷にも、もはや何も残っていない」とため息をついた。
地震から1カ月を控えた5月23日、ランタンの入り口となる町ドゥンチェに向かった。途中の町ベトラワティで、河原に張られたテントを見かけた。雨が降って川が増水すれば、確実に流されてしまう位置にある。山岳国で平地が乏しいため、出遅れれば、こうした危険な土地にしか、避難生活を送るためのスペースを見つけられなくなってしまう。
取材を続けていると、表通りに人だかりができて、にわかににぎやかになった。ここを選挙区とするマハト財務相が視察に来ていた。マハト氏は有権者に両手を振りながら表通りを練り歩き、また別の方向に向かっていった。ドゥンチェでも、空き地の至る所がテントに占領されていた。深い谷を挟んで向かい側にあるハク村で、地震後に次第に土砂崩れが進行し、今も続々と新たな避難者が出ている。土砂崩れの様子は、ドゥンチェからもくっきりと目に入った。トレッキングで知名度の高いランタンと異なり、これまでハクのことは何も報じられていなかった。
ちょうどこの日にハクから逃れてきたドルジェ・ビンジョさん(55)は「食べ物も水もない。土砂崩れがどんどん広がってくる。もうあそこには戻れない。とはいえ、いつまでもテント暮らしはできない。どうすればいい」と話した。
ドゥンチェのソーシャルワーカーは「ここに、ハクの被災者が生活を再建できる土地はない。政府は移住先を見つけるといっているが、見つかる可能性は極めて低い」と語り、「どこかに『難民キャンプ』のようなものをつくるしかなくなるかもしれない。近い将来、大きな問題になる」とみる。復興計画を練る政府計画委員会によると、山間部住民の20%は、土砂崩れなどによりもとの村に戻れない可能性が高いという。
もう一つ懸念されるのが、6月以降のモンスーン(雨期)だ。すでに緩み、大規模な地滑りが発生している地盤がどうなるか。土砂が川をせき止めれば、洪水も発生しかねない。山間部の人々は、その懸念を口々に語った。
カトマンズに戻ると、タメル地区で明かりをつける飲食店やバーは、さらに増えていた。ただし、救助・支援関係の外国人の多くが去り、観光客も戻らずにがらんとしていた。
◇
出典:
朝日新聞6/9 貫洞欣寛・ニューデリー支局長
【関連する記事】