岡倉天心は現在の日本美術界の祖ともいえる人物とは誰もが認めるとこだ。
日本は文明開化以降、「廃仏毀釈」という仏教排斥の風潮が高まっていて、仏像などの美術品や仏教建築物などが破壊されたり、海外へ流出していた。天心はそういった仏教美術を救おうと立ち上がり、現政府にも波紋を広げていく。10年間で21万件もの全国の古美術の調査を行い、文化財保護を訴えたという。
このような天心の活動や見識によって、その後、文化財を保護する法律が次々と出来上がることとなった。
翌年昭和25年に文化財保護法が制定される。それは、ひとつに昭和24年に起こった法隆寺金堂の焼失事件で、
1300年続いていた金堂の建物の壁に描かれていた日本最古の絵画とされる7世紀後半の仏教絵画が黒焦げになった事件も影響した。昭和9年から行われていた「法隆寺昭和大修理」で解体修理中に壁画を模写していた画家が作業中に使っていた電気座布団のスイッチを切り忘れたからだと言われた。
一方、昭和35年、弥勒菩薩半跏思惟像は国宝認定第1号の仏像になったが、実は美しすぎるあまりに災難に見舞われたことがある。この仏像を見学していた京都大学の学生が、仏像の美しさに魅せられて頬ずりしようとしたところ、誤って指を折ってしまったのだ。現在は修理され、傷も肉眼では分からないほどになっていると言う。このエピソードは皮肉にも「学生が触って指を折ってしまうほど美しい」という仏像の美しさを知らしめるものとなった。 国宝の損壊ということで大変な騒ぎになったが、ある歴史学者が、指が折れたときに落ちた木片を詳しく調べたところ、 韓半島にしか生えていない赤松だということが明らかになった。日本の国宝に指定されたこの仏像が韓半島で作られたという、有力な根拠になった。
日本には様々な国宝が存在するが、海外にも認められた日本を代表する芸術であるはずの「浮世絵」は1点も国宝に選ばれていない。その理由のひとつは、浮世絵は庶民が楽しむ大衆芸術だったのでかつての日本では芸術的な評価が低かったことの表れともとれる。そういった背景から、肉筆など貴重な「国宝級」とも言える浮世絵の多くが海外に流出してしまった。
つまりどんなに素晴らしいモノであっても、その土地の人々がその価値を認めて保護しない限りは、いくら素晴らしいものであっても失われてしまうということだ。
さらに皮肉なことに、日本の国宝茶碗は8点のうち2点を覗き、朝鮮と中国からの渡来ものだ。そして、韓国、中国ではさして価値のないものとみなされたのか、国宝などとして残ってもいないという。日本のワビ、さびの極致をいく伝統文化はこうした背景の上に醸成されてきたということのようだ。
2015年06月10日
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