2015年09月26日

お茶、中国文化と日本文化の異質性を象徴 その1

 昨日は市議会の最終日、陳情の案件で呼びかけがあって、傍聴にいった。全会一致で採択され、雨のそぼ降る中、男性傍聴者が多かった傍聴席で、女性は数えるほどだった。議席の中にも女性は3人になってしまったから、こういう席では女性の参画は席の向こうとこっちで同程度という感じ、さらに執行部には女性ゼロ。男女共同参画都市宣言は、宣言どまりというところか。女性は職員採用試験では高得点で男性を押しのけてしまうほどと耳にするものの、その後の展開はなぜなのだろう。
 
 さて、秋も深まる週末、和菓子をいただき、温かいお茶が嬉しい季節だ。京都あたりで、川面を眺めながら、旅の足を休め、お茶を頂いたら最高なロケーションだ。もともと、お茶の起源は中国に遡り、日本はお坊さんがもたらした。さらには、インドに伝わりチャイと呼ばれ、植民地統治の英国に伝わってアフタンーンティが盛んになり、それは、英王室からロマノフ王朝に嫁いだ妃によって伝わったということからか、ここでもチャイと呼ばれて、世界の紳士淑女に伝わったようだ。連休中日に行った交流会には、中国人留学生が来て、お茶の話がでた。中国では、ウーロン茶、ジャスミンティなどより緑茶が好まれ、菊の花茶もポピュラー
なのだと、意外な側面を知った。

 本家本元の中国の茶は如何にして茶を美味しく飲むかは、味だけではなく、色・香・味を含めるそうだ。唐の『茶経』、宋の『茶録』、『大観茶論』などの茶書は、茶の製作、水の選び、茶の点て方、茶道具の扱い方などから、ひたすらに茶の味を追求した。茶碗の釉色、器形、深浅、大小などにこだわったのも、茶を美味しく飲む。

 中国では茶碗は茶の味を際立たせるための道具とされる。日本人のこだわる玳皮天目は茶の色を邪魔し、茶の味を損じるとされ、選ばれなかった。陸羽は青磁の青に浅黄色の茶の色映りが良いと言い、越州窯の青磁茶碗を選んだ。蔡襄は黒磁の黒に白色の茶の色映りが良いと言い、建窯の天目茶碗を選んだ。徽宗皇帝は茶の味を第一だと語り、純白の茶の色を引き出すために黒の禾目天目をとりあげた。

 一方、日本の茶の湯は、茶碗などの茶道具を如何に賞玩するかということを重視する。日本最古の茶書、栄西の『喫茶養生記』(1211年成立)は、茶の薬用功能を説き、喫茶を養生の手段だと言いながら、茶を美味しく飲むとは言わない。鎌倉・室町時代の茶の湯には、根強い唐物崇拝がある。玳皮天目もその唐物崇拝の風潮のなかにあった。1380年の『新札往来』に「鼈盞」の語が見られ、茶人により喫茶道具として茶の湯に持ち込まれたことがわかる。

宋代では茶がすでに庶民の日常生活に浸透していた。だが、喫茶文化の担い手はやはり高い地位にいる文人階層だった。茶を嗜むこと、つまり、茶の色・香・味を楽しみ、茶の器にこだわる。そんなことができるのは、経済的にも時間的にも余裕があり、そして教養も必要なのである。徽宗皇帝の『大観茶論』に書かれた茶の点て方を見ると、第一湯から第七湯まで、湯を七回に分けて注ぐなど、その煩雑さに呆気に取られる。古今東西随一の複雑さである。これほど手の込んだ点て方で茶を飲めるのは、徽宗及びその周辺の文人官僚しかいない。

宋代の文人好尚、あるいは文人趣味とは何か?
 それは、平淡であった。
 技巧を尽くした玳皮天目は、宋の文人の平淡好みから遠ざけられた。そのため、玳皮天目は建窯の油滴天目や禾目天目のように一世を風靡することがなかった。産地である吉州地方の農民の日常雑器とされたり、あるいは海外貿易の商品に流されたりした。これが我が国の国宝茶碗に見える日本文化の矛盾と相克だ。

茶は中国で神農時代からすでに人々の生活に入っていた。最初は野菜として食用とされ、茶の葉を煮てその中に葱、生姜、棗などを加える野菜スープのような調理法であった。

『茶経』でこのような茶の扱い方を排斥し、新しい喫茶法を打ち出す。すなわち、茶の葉を蒸して臼で搗き餅状にして乾燥する。乾燥した餅茶を粉末に碾き、釜の中に入れ、水で煎じて飲む、という煎茶法である。徽宗皇帝の『大観茶論』になると、茶筅が現れる。茶筅を用いて茶碗の中で抹茶を点てるようになった。日本の茶の湯の原型はここにある。 元・明時代に入ると、葉茶の泡茶法が広がる。元代に入ると、宋代で盛んだった喫茶文化が衰退していく。さらに明代では、葉茶泡茶法が抹茶点茶法にとって代わり、小ぶりの白磁茶碗が好まれるようになる。油滴や禾目のような天目茶碗の必要性が少なくなったのである。

つづく  茶人は唐物の茶道具、青磁茶碗や天目茶碗などを狂熱的に求めていた。このような時勢のなかで、日中間を往来する商人は、中国で不要になった天目茶碗をかき集めて日本に持ち込んだのである。油滴天目は、内外にかかっている漆黒の釉面に、銀色の油滴のような斑点が無数に浮かぶ茶碗である。古くから名物・大名物として尊ばれ、大阪市立東洋陶磁美術館の国宝油滴以外にも、重要文化財に指定されているものがいくつかある。油滴天目の油滴現象は、窯の温度が高くなると釉面が煮え、ぶくぶくと泡を吹く。やがて泡が破れた箇所に釉中の鉄が集まり結晶し油滴になったものである。

 極言すれば、中国の茶道では、茶碗は茶を飲むための道具であり、茶のために茶碗が存在する。日本の茶の湯では、茶碗を賞玩するために茶の湯が存在する。茶碗賞玩のために茶を飲む、ということである。


 天目茶碗のこの世にない美に憧れ、茶の湯の茶道具から今日の国宝まで、借用が続いた。そして、中国を超えるものを造ろうという対抗意識から創造が生まれた。瀬戸天目、美濃天目、伊勢天目、白天目、菊花天目などの和物天目茶碗は、宋の天目茶碗の借用から生まれた創造である。なかでも、最も創意性があったのは、千利休の黒楽茶碗である。

 加藤景正の瀬戸窯。1242年に宋から帰朝した加藤景正は、宋の天目茶碗を日本で造ろうとして瀬戸窯を開いた。以来千年近く、日本の陶工は宋の天目茶碗を日本で再現しようと焼き続けてきた。14世紀の瀬戸窯、15世紀の美濃窯、大正時代の宇野仁松、現代の加藤幸兵など油滴天目写しの名手、さらに上記に見られる曜変天目に生涯をかけた陶芸家、天目茶碗に対する日本人の情熱とはいったい何か? 天目茶碗に対する日本の陶工の情熱は、中国文化への憧憬と対抗意識から来ているのではないか。禅院什器、すなわち茶碗・香炉・花生等の唐物陶磁器の大量舶載もされた。

 積載された大量の陶磁器の中に、青磁、白磁以外に禾目天目などの天目茶碗も入っていた。沈船の年代は1320年頃とされ元の中期に当たるが、陶磁器の製造年代は、元だけではなく、南宋の作もある。特に天目茶碗
は当時の中国ではもはや焼造されておらず、12世紀前半に造られたものであることは明らかである。そのうえ、茶碗には使用された痕跡が残されていた。つまり、中古品だったのである。必ず端正な形を選び、歪で質の悪いものを使ってはならない。中国では宋の抹茶点茶法が消えつつあった頃、日本では、東山流茶の湯、珠光流茶の湯がまさに日の出の勢いだった。茶碗は、古く建窯の兎毫盞が好まれたが、それは抹茶の点茶法に
都合がよいからである。これが、油滴天目と禾目天目が渡来した背景だったのである。

 また、点茶法の衰退は明代に入ると、葉茶流行のためにいっそう早められる。とうとう、中国では抹茶が完全に消失してしまう。一方、日本では点茶法がますます盛んになってくる。このような時流を背景に、中日間を往来する商人は、新安沈船のような商船を使って、中国で不要になった中古の油滴や禾目を、天目茶碗に強く憧れる日本に運び込んだのである。要するに、天目茶碗は、12世紀の栄西の建盞天目をはじめに、曜変天目、玳皮天目など中国では人気のないものが先に渡来した。そして14世紀に入り、油滴天目と禾目天目が渡ってきたのだと考える。

 宋の文人の寵児だった油滴天目、禾目天目は、その当時は海外に流出することがなかった。それらが日本に流れ込んできたのは、中国では点茶法が廃れ、黒釉茶碗が不要になってからのことである。かつて遣唐使の永忠が、三十三年間の在唐生活で親しんだ陸羽の煎茶法と青磁茶碗を持ち帰ったと同じように、栄西も在宋生活で親しんだ宋の点茶法と建盞天目を持ち帰った。この建盞天目は、油滴天目や禾目天目などのような上質なものではない。禅院で日常什器として使われた、質の悪い雑器のような量産茶碗である。

 朝廷の命令で龍缸を焼かされる。龍缸は龍文を施した宮廷用の大甕である。
大きな器物であるため、焼くことが非常に難しい。なかなか出来上がってこないので、監陶官は厳しい刑罰をもって陶工を追い詰める。飢餓に堪え苦しい作業を強いられる同僚を救い出すために、童賓は自ら窯火の中に飛び込んだ。翌日になって窯を開いてみると、見事な龍缸が焼きあがっていた。奇跡と言うべき大龍缸である。これは歴史上の事実だと伝えられている。陶工たちは、童賓を風火窯神と尊び、「佑陶霊祠」を建てた。各工房にも風火窯神が祭られ、毎年風火窯神を迎えるための「迎神会」を行うようになった。朝廷の命令で龍牀を焼造するが、失敗が続く。陶工たちが殺されそうになったとき、火を観る陶工の娘が、窯火の中に飛び込んだ。すると、素晴らしい龍牀が出来上がったという伝説なのか実話が下敷きになったかと言え、本当に起きたとも想像できる。

 これらの話は、陶工にとって窯火がどれほど神秘で、神聖なものであるかを示す。この窯火の計り知れない変幻によって生じた不可測現象が、すなわち窯変である。窯変は忽然として起こる異変である。窯中に入っている器があるいは魚に変わったり、あるいは果物の影がその上に浮かんだりする。伝聞では、窯を焼くときに、童男童女の鮮血を用いて窯神を祭るので、精気が器に凝結して怪異が起る。近年、生きている人間を窯神
に捧げることを禁止されたので、窯変が起らなくなったとい、童男童女を犠牲として窯神に捧げるというような話が生まれるということ自体、窯変への恐れ、忌諱を物語っている窯変は、数十窯の中でも、千万品の中でも、ただ一つ出会うか出会わないかという稀な現象である。しかし、監陶官は窯変を見れば、必ず毀してしまう。

 小山冨士夫は、建窯窯址の調査で窯変天目の破片が一片すら見つからなかったと述べる(小山、1974)。要するに、窯を出てすぐ抹殺されてしまったのである。それゆえ、書斎や廟堂にいる宋の文人や皇帝は、「稲葉天目」のような茶碗の存在も知らなかった。当然それを用いて茶を飲むことも、詩文に詠まれることもなかった
のである。窯変は珍奇であるが、朝廷に進呈することはできない。日本人には、中国人の敬天思想がない、ということである。

 中国では、庶民から最高権力者の皇帝まで、天を超越的な存在として敬う。日月星辰、陰陽五行の天地万物の変化から、天の心を推測し、その旨意に背かないように戦戦兢兢とする。日本には、八百万の神がいるけれど、中国人の崇拝するような超越的な天がない。中国人にとって聖なる天意、天命も、日本人には何の意味も持たない。春夏秋冬・風花雪月の移り変わりに感動するが、日本人は日月星辰の運行、陰陽五行の働きには興味がないのである。

 明・何孟春の窯変論の中に、「朝廷に進呈する磁器は、仕様にぴったり合うような端正な形で、疵瑕一つもなく、色も光沢も均一な器物でなければならない」という一節がある。言うまでもなく、天圓地方の円満調和を貴ぶためである。したがって、製陶は陰陽五行の調和を象徴し、神聖な意味を持っていたのである。

 しかし、この神聖な活動に、窯変という予測のできない変化が起ると、当然それは天意のあらわれであり、から与えられた警告だとみなされる。だが、天は直接に万民に懲罰を与えることがない。天は万民を代表する皇帝に懲罰を与えるのである。

 伝聞では、民間で磁器を焼くとき、窯変があれば、大きい器物ならば毀してしまうが、小さい盞や罌(瓶)のような器なら、隠して富者に売りつける。価値は金玉に等しい。窯変はいくら珍奇とは言え、異変によるものである。窯変が出たという事実を、世間や朝廷に知られたくなかったからである。
。土が高価な玉になったのだから喜ばしいことなのに、陶工たちはこの異変が朝廷に知られるのを恐れ、遂に窯を廃絶して景徳鎮に逃れた、という。

 なぜ、陶工、あるいは監陶官は、窯変の発生を朝廷に知られるのを恐れたのか? 言いかえれば、朝廷、あるいは皇帝はなぜ珍奇な窯変を喜ばないのか? 窯変は人工ではなく天のなしたわざである。

 黒磁の黒の呈色は青磁の青と同様に、釉薬の中に含まれている鉄分の働きによるものである。鉄分の含量が二%以下ならば青磁となり、一五%以上になると黒磁となる(小山、一九七四)。しかし、青磁の呈色は焼成状況によって厳しく左右される。火力が過ぎても甘くてもだめであり、酸化焔ではなく還元焔で焼かなければ玉のような美しい青が出ない。一方、黒磁の場合は、還元焔にしても酸化焔にしても黒色はあまり変わらない。そのため黒磁の焼造は青磁より容易で、どこでも焼ける。

 ところが、黒は見た目のうえでも人に喜ばれない色であるため、黒磁は庶民の日常雑器という位置づけであった。専用の窯もなくたいてい青磁窯を兼用していた白磁より黒磁のほうが歴史が長いにもかかわらず、「南青北白」の中に黒磁が入っていない。中国人、というより歴史記録を作る文人にとって、黒磁はとるに足らない雑器だったためである。華南華北の各地で天目茶碗が盛んに焼造されていた。これは宋代以前には見られない現象である。中国から伝来された最初の頃、中国での呼称「窯変」をそのまま用いたためであろう。だが、唐物への盲目的崇拝から、日本の貴族は次第に自分の眼で唐物を見、そして賞玩し始めたのである。そこで、あらためて窯変天目の世にも稀なる美しさに魅かれ、その輝きに相応しい「曜」という字を用い「窯」に替えたのだと思われる。これは、龍泉窯の粉青釉青磁に砧という新しい日本名をつけたことと異曲同工である

 陶磁器焼造の過程で、火焔の性質の変化により、自然に生じた偶然の変色や変形(やきもの辞典、一九九二)。つまり、窯変は火の計り知れない変幻作用による天工である、ということである。ちなみに、窯変は天目茶碗だけではなく、あらゆる陶磁器に起りうる現象である。

 茶の湯の茶碗を茶人が品定めして、その順位を示す言葉には「一楽二萩三唐津」、あるいは「一井戸二楽三
唐津」がある(やきもの辞典、一九九二)。そのいずれにも天目茶碗が入っていない。天目茶碗を再現しようとする日本陶工の情熱は、中国文化への憧憬であったのは間違いない。

 ところで、日本には八点の国宝茶碗があるが、本阿弥光悦の白楽茶碗(銘不二山)のと志野茶碗の二つ以外は日本のものではない。国宝 志野茶碗 卯花墻の常設は東京・日本橋にある三井本館7階の三井記念美術館。濃の牟田洞窯で焼かれたもので、歪んだ器形・奔放な篦削り・釉下の鉄絵などは織部好みに通じる作行きといえる。もと江戸の冬木家にあり、明治20年代中頃に室町三井家の高保の有に帰したとされる。

 利休の黒楽茶碗、織部の沓形茶碗、美濃窯の黄瀬戸茶碗、そのいずれも入っていない。
矛盾に満ちた国宝なのに、日本人は矛盾を感じない。

 井戸茶碗一点を除く、すべて五点が中国から到来の天目茶碗である:
曜変天目三点、油滴天目一点、玳たい皮ひ天目一点。
世界に現存する曜変天目三点は、すべて日本にあり、国宝になっている。

 最も華やかな輝きを放つのは、「稲葉天目」である。
徳川家三代将軍家光からその乳母春日局に下賜され、後に春日局から実子の稲葉家に渡されて代々秘蔵され、現在は静嘉堂文庫美術館蔵外二点は藤田美術館、大徳寺竜光院所蔵の各一点。

 実は、中国の陶工は窯変を不吉の兆と見て、窯から出るなりそれを毀した。これに対し、日本の茶人は曜変天目をこの世にない珍しい唐物として尊び、その華麗な美しさに憧れ、茶の湯に用いたのである。端的に言えば、「窯変」と「曜変」の違いである。

 国宝になっている油滴天目は大阪市立東洋陶磁美術館に所蔵
曜変天目と油滴天目は福建省の建窯の作品だが、玳皮天目は江西省吉州窯の作である。

 玳皮天目の場合も、日本は一番数多く名品を所有している(小山、1974)。なぜ中国には玳皮天目が残されなかったのか? 曜変天目と違い、玳皮天目は恐ろしい窯変ではなく、中国の陶工が精魂を込めて造ったものである。精魂を込めて造ったものなのに、なぜ大事に残すことをしなかったのか。それは中国文人に好まれず、日常雑器に使用され、うちに壊れ棄てられ、歴史の風塵の中に消えてしまった。
ただ、海外貿易に流され、日本の茶人にとりあげられ、今日まで伝えられ日本の国宝になったのである。

 一見華やかに見える玳皮天目も、実は黒磁茶碗の一種である。黒釉の上に繁雑とも言える工夫を重ねたのも、やはり黒という色への抵抗感からであろう。茶碗内外の全面にわたって黒釉をかける。黒釉の上に切り紙の型紙を置き、その上から藁灰釉をふりかける。型紙を外すとその部分に地の黒釉が現れる。ほかの部分には釉薬が二重にかかるため、玳皮天目特有の鼈甲釉になる(小山、1974)。このように、吉州窯の陶工は切り紙を利用して様々な文様を表現した。梅花を散らす梅花天目、龍文を表わす竜天目、鳳凰を表わす鸞天目、「金玉満堂」「長命富貴」などの文字を表わす文字天目もある。また、黒釉に木の葉をおいて焼いた木葉天目もある。とにかく、玳皮天目は技巧的で作為が強いと言われる。
posted by Nina at 00:00| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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