現行日本国憲法は、GHQ占領のなかでGHQ草案で作られたと言われることがある。そこで戦後半世紀以上もたって、日本国憲法改正の必要性があると主張も出てくるようだ。
もっとも、そのGHQ草案には、日本人学者らの呼びかけた民間の憲法制定研究団体「憲法研究会」が発表した「憲法草案要綱」が採用されたことも知られるようになってきている。つまりGHQ草案には、高野岩三郎、森戸辰男や鈴木安蔵らが加わった「憲法草案要綱」を重視したコートニー・ホイットニー准将らGHQによる憲法案の作成に大きな影響をあたえており、少なからぬ点で共通する部分を有しているとされるのだとわかってきている。
その経緯は、敗戦後1945年の秋、社会統計学者の高野岩三郎(元東大教授、後に初代NHK会長)杉森孝次郎らの提唱で結成された「日本文化人連盟」に、森戸辰男らも参加。「新生」という雑誌を出すと共に、内部で新憲法の研究を始めた。その10月末には、法律に詳しい鈴木安蔵や今中次麿を加えて「憲法研究会」を発足すると、同年11月5日、杉森孝次郎(元早大教授)、森戸辰男(元東大助教授で後に片山・芦田内閣の文部大臣)、室伏高信(評論家・元朝日新聞記者)、岩淵辰雄(政治評論家・元読売新聞政治記者)ら当時日本を代表する言論人も加わった。「憲法研究会」では二ヶ月もの激論を重ね、鈴木が憲法草案「第3案」をまとめると、会はこの案をベースに「憲法草案要綱」を作成、1945年12月26日に発表した。この要綱がGHQに大きな影響をあたえたことから、それをまとめる中心となった鈴木安蔵は、日本国憲法の間接的起草者と認められている。
政府部内では、帝国憲法による国体の護持を目指してつつ改正作業を進めていたが、どの政党よりも一足先に出た民間の「憲法草案要綱」は大きな反響を呼ぶことになったのだ。鈴木は、発表翌日の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である」と述べている。
鈴木安蔵は、大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行(発禁処分)している。また、1937年にはやはり尾佐竹の推薦で衆議院憲政史編纂委員に就任した。これ以後彼は、戦前期において実に20作以上に上る著作を発表し、また研究活動の過程で明治期の民権運動家による私擬憲法(憲法案)を発掘したことは戦後の活動につながることになった。しかし、戦時中は「即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)、「東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)という大東亜共栄圏のイデオローグであったし、 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年)は、侵略戦争の世界史的意義を説くとの副題がついている著書もあるという。
2015年02月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック